悟りと般若心経
プンジャジの「覚醒の炎」を読んでいたら、般若心経のことががでてきた。ちょど般若心経を唱え続けて一万回に近づいているので、完全に本とシンクロしているようだ。真我がしだいに近づいてきているのかもしれない。
「感覚はいつも過去のできごとにしがみついている。心はその感覚を通してあなたを過去へと連れ戻す。あなたが見るものはすべて心の創造物であり、心は常に過去のなかにある。時間の存在しない現在の瞬間には、心は存在しない。心がどこから現れるのかを見いだしなさい。
そして、それがその場所に消え去るのを見守りなさい。そうすればあなたは時間もその場所に消え去ることを発見するだろう。心の消滅は、あなたが心配しなければならないようなものではない。あなたはそれなしでも充分生きていけるのだ。私が語るその場所には「心」という言葉も他の言葉も存在しない。あなた自身に語るために言葉はいらない。
言葉が現れると、それはあなとを真我から連れ去ってしまう。言葉は、常にあなた自身の沈黙にとっての、障害、障壁、弊害なのだ。あなたが真の我が屋で楽しんでいる時、それを描写するための言葉は入り込まない。沈黙は、言葉や時間に遮られることのない絶えざる流れだからだ。
これが超越の場だ。それについて語るものは誰もいない。それを描写するために言葉は当てはまらない。仏教徒にはそれを指し示す良い言葉がある。「タタターtathata」という言葉を聞いたことがあるだろうか。ふつう、それは「真如」(あるがまま)と翻訳される。それはただそうであるものなのだ。もし言葉をもちいなければならないなら、このような言葉をもちいるがいい。あなたの心にあたらしい概念を吹き込まなもの。根底にある真理をただ指し示す、あるいはほのめかすだけのものだ。」
「時間の存在しない現在の瞬間には、心は存在しない」この言葉は、おおいにヒントになりそうだ。今というこの瞬間は、時間から解放されていたのかもしれない。時計を意識することが「時間」を生んでいたといことだろうか。この言葉をマントラのように唱えるといかもしれない。「真如」という言葉も「あるがまま」と訳されると実にわかりやすい。自然に身体に入ってくる。この言葉をウィキペディアで調べたら実にわかりにくかった。すでに概念化されてしまったいたからだろう。真理は、シンプルでわかりやすいものだ。概念化された言葉は、凍った水のようなもので、自然に身体に流れこんできてくれない。だから、プンジャジのように実際に体験した聖者の言葉必要なのだろう。
この続きは、また、次回に!