愛の道

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ラマナ・マハリシが「あるがまま」の中で愛の道(バクティ・マールガ)について語っているので引用してみよう。

質問者:スワミ、神を愛することは善いことではないでしょうか。それならばなぜ愛の道(バクティ・マールガ)にしたがわないのでしょうか。
マハリシ:それに従わないと誰が言ったのかね。そうするがいい。だが、あなたが、愛について語る時、そこには二元性がある。愛する者と、神と呼ばれる実体たる愛される者がいる。そうでないだろうか。個人は神から分離してはいない。それゆえ、愛とは自分の真我に対する愛を意味しているのである。

質問者:だからこそ私は、神が愛の道を通して崇拝されていいのかどうか尋ねているのです。
マハリシ:それこそが私が言ってきたことである。愛そのものが神の本当の姿である。「私はこれを愛さない」、「私はあれを愛さない」とすべてを拒絶していくと、拒絶しきれないものが残る。それがスワルーパ、真我の無形態の形態である。それは純粋な至福である。純粋な至福、アートマ、好きなように呼ぶがいい。それが帰依、それが真我の実現、それがすべてである。
あなたがこのようにすべてを拒絶すると、ただ真我だけが残る。それが真実の愛である。その愛の秘密を知った者は、世界が普遍の愛でみちていることを知るだろう。

真我の本姓である愛を知る人にのみ、強くからまった生のもつれは解きほどかれる。愛の高みに達した人にのみ、解脱は成就される。それがすべての宗教の本質である。真我の体験とは愛である。それはただ愛だけを見、愛だけを聞き、愛だけを感じ、愛だけを味わい、愛だけをかぐ。それが至福である。

ラナマ・マハリシが愛について語るとは思わなかった。しかし、その言葉は、実に端的で美しくもある。真我の体験とは「愛」であるという。それはだれかを愛するという愛ではなく、愛そのもの、至福に中に居る時にすべたが愛として体験されるということだろう。
そして、「私」という分離した意識が消えた時、すべてが純粋な意識、普遍の愛によって満たされていることを知るという。インドのアマチのアシュラムに行った時に感じたのだが。彼女はすでに肉体を超えた巨大なエネルギー場のようだった。そして、その存在は、普遍の愛という形で世界中に広がって存在している。もし、あなたに感じるとる力があるなら、その愛をすぐにも感じ取ることができるだろう。

 

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