玄奘三蔵法師の映画を観て
たまたまネット配信の動画を観ていたら、大唐玄奘という映画に出会った。般若心経などの経典をインドから持ち帰ったのが、玄奘三蔵法師であるということは何となく知っていたが、彼が実際にどのような苦労をして、持ち帰ったのかは知らなかった。それは孫悟空でお馴染みの「西遊記」の中の三蔵法師と混同してしまっているからだ。おまけに日本の西遊記では、三蔵法師を女性が演じる始末で、まったく何が何だかわけがわからなくなている。
この映画を観てわかったのだが、彼は、インドに行くまでに4年もかかったのだという。つまりは、今、毎日唱えている般若心経も、先人の決死の覚悟と努力の元にもたらされたということだ。インドから帰ってきたのが、645年とあったと思うが、日本では、大化の改新があった年だ。こんな昔から、仏教を伝えたいという情熱が連綿と受け継がれて現在に至っているはずだが、果たして今はどうなのだろうか。
日本の寺では、妻帯はあたり前で、彼岸に寺に行っても若い坊さんと話す機会はない。葬式と法事にお経を読むだけの家業に成り下がっている。檀家もだれも般若心経の意味も知らないし、説明を求めることもできない。坊さんは、檀家が死なないとお経をあげることもしない。果たしてそれで良いのだろうか。目の前で生きている人間に対してこそお経の意味を説き、いっしょに唱えるべきだはないだろうか。もっとも玄奘三蔵がインドの寺で修行をしているシーンで、その寺の管長との会話で、「今は信仰が薄れ寺を維持するのも大変だ。」と言ったような会話があったように思う。1500年前のインドでさえ、そうなのだから、遙か東の果ての日本の現在の状態がこうなってしまったのも、致し方ないのかもしれない。せめて、毎日、般若心経を唱え、その教えの意味を少しでも皆とともに体現してゆけたらと思う。