生命の実物「他に依止するものは動揺す」(内山興正著)

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以前岡山の安泰時で夏の間だけ参禅したことがある。安泰寺は、内山興正老子ゆかりのお寺だ。そのころは、宮浦管長だったが、今では、ドイツ人が管長をしているのをテレビで見たことがある。世の中、変わったものである。この本が書かれた頃の内山老子もまさかドイツ人が管長になるとは、思いも寄らなかったのではないだろうか。

生命の実相から少し引用してみよう。

我々が普段、自分、自分と言っているものは何か。ーそれは他者と出逢い、他者に対するところにのみ、自分というものを浮き彫りにしてくるように思います。たとえば、ここに一人の人がいる場合、彼は妻に対する時「夫」という規定において自分を見出し、我が子に対する時「親」という規定において自分を見出します。会社にゆき上役に対したとき「下役」という規定において自分を見出し、能力の「ある同僚に対しては「無能だ」という規定において自分を見出します。そして、顧客に対しては「売り手」、同業者に対しては「競争相手」、金持ちに対しては「貧乏」、「あんないいもの」に対しては「買えない」、勝者にたいしては「敗者」、社会に対して「無力」等の規定をもった自分を見出すでしょう。ーところでもしかれがこのよな規定においてばかり、自分といういものを意識しているとしたら、これはもう、劣等感によってノイローゼにならないのが不思議だといわなければなりますまい

中略

ところで、これらすべては裸で生まれ裸で死んでゆく、暫くの中間に着るところの着物でしかないわけですが、ほとんど多くの人たちは、これらの着物ばかりに目を奪われて、これらの着物のうち「どんなよいものを着るか」といういことだけが、生きて行くことの問題のすべてだと思いこんでしまっていますそして、ほんとうの「生命お実物としての自己」「裸の自己」とは何かということんなど、思い出しもしないでいるのじゃないでしょうか。つまり、さきに「他との関係における外的規定」と言ってきたことは、まさしく今ここでいう「着物」であるわけですが、とにかくわれわれは、たしかに今事実、自分を生きていながら、しかし実は「真実の自己の実物」を生きているわけではなく、ただ、「他との関係において外的に規定された自分」あるいは「しばらくの間の着物」だけを問題にし、これだけがすべてだと思いこんでいるのです。

なるほどそうだったのかと得心がいく方も多いかと思いますが、現実は、派手な着物が幅をきかせている世界です。そんななかで真実だけを求めるのもなかなか辛いものがあります。
最近、気功教室で太極拳も教え始めました。そして、気功で培った内的な喜びを華のように外に表現してもらおうと思って、衣装をそろえることにしました。やはり、衣装というと女性の目が輝きます。真実だけでは、なかなか理解してもらえなくても、こうした表現を工夫することによって、より具体的に真実の成果が大勢の人の目に触れて理解されるようになることも大事ではないかと思う今日この頃です。

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