一切が空であるということ

先日、親戚の叔母さんのお葬式があった。その前の日に、湯かんをして足に脚絆を履かせた時に、その冷たさに触れて、もう生きてはいないことを実感した。そして、昨日は、葬儀の後に焼かれた骨を骨壷に収めた。これは、ある意味すごいことだと思う。なぜなら、ついこないだまで生きて動いていた人を焼いて灰として骨壷に収めてしまうのだから。少しでも肉体に対する執着があったら、なかなか心情的には受け入れることができないのではないだろうか。これを当たり前のこととして受け入れている日本人は、たいしたものだと思う。

火葬が普及したのには、仏教の影響があるようだが、お葬式で聞くお経もそれなりに理解されているということだろうか。般若心経も身近な存在だし、これを写経したり解説本を読んだり声にだして毎日唱えている人もけっこういるのだろう。その冒頭に「観自在菩薩 行人深般若派羅密多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄。」とある。肉体を含めこの世の一切が「空」と悟った時にこの世の一切の苦悩から開放された。たいていの宗派は、お葬式の時は般若心経を唱えるのかだら、子供の頃から無意識にでもこのお経を聞いていれば、自然と肉体への執着から離れて「死」を受け入れることができるようになるのだろう。そういう意味では、一般の人にとっては、お葬式が唯一の仏教の勉強の場でもあるのかもしれない。

日本人のように一切が空と割り切ることができれば、執着や恐れを火葬にして葬り収めることができる。子どもの頃は、お葬式のたびにこの間まで元気だった人が、火葬されて目の前に骨としてあることが不思議だった。人間ってなんなんだろうか。死ぬとどこへ行ってしまうのだろうかと思ったものだが、般若心経を唱えるようになってからは、その意味がよくわかるようになった。

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