「青い海」の気功、そしてアンマと海1
二年前の夏にインドのアマチのアシュラムに行った。シンガポール経由で、アシュラムに着いたのは、夜中の3時頃だったろうか。とりあえず、部屋に案内されると、ひとりがらんとした部屋で波の音を聞きながら眠りについた。アマチのアシュラムは、アラビア海にめんしていて、海がすぐ近くにあった。
アマチの「人と自然と」という小冊子を読んでいたら、ラクシュミという女性のお弟子さんの「アンマと海」という文章が載っていた。ちょうど「青い海」の気功とも関係があるので、引用してみようと思う。
「皆さんにアンマと海のつながりについてお話したいと思います。
海という言葉を聞くだけで、私たちは広がって大きい感じを想像します。その果てしない美しさを見るとき、心配ごとはすべて忘れられてしまいます。波の音を耳に傾けているだけで、心は静まってきます。
なぜ、みんな海を見るのが好きなのでしょうか?その広大さ、果てしない広がりのためではないでしょうか。そこにはしきいのない、境目のない、ひたすら無限に尽きない美しさがあるからです。
私たち一人一人はみな、心の奥に海があります。至福の海です。それが私たちの本当の姿、つまり、すべてにまねく宿り、境目がなくひとつながりで区別をしらない本当の自分です。
でも、それが本当の姿なのに、私たちはそれを見失ってしまいました。しかし、ひとつながりである感覚こそが、私たちが求め、切望してやまないものなのです。だから知らず知らずのうちに私たちは他者との関わりの中にその一体感を見いだそうとします。
人と人がたがいに深く愛しあうとき、自分のことはすっかりと忘れてしまいます。それはまるで、この一体感を体験したいがために、相手の中にとけ込もうとするかのようです。私たちは、たがいの距離がまったく無ければよいと願います。自分の限られた人格の殻から抜け出て、相手の中で一つになりたいと望みます。こうして一体となることに、私たちは幸福を感じるのです。」
生身の人間のなかにこの一体感を求めることは、一時的には可能だろうが、最終的には残念ながら裏切られることが多いように思う。「今生は、だめだから、また、来世できっとあなとを探し出す」なんて言われても、きっとそういう人は、また、同じことを来る返すにちがいない。
そういう人に対しては「残念まがら、来世はもう生まれてこないので」と断るにこしたことはない。どうせ恋をするなら、けっして裏切ることのない、海のような愛をもつアマチのように純粋な意識に到達した聖者に恋をするにこしたことはない。
「青い海」の気功は、ただ鯨のなきごえが入った海の音楽を聴きながら動くだけで、しだいに意識が溶けて、その広大な海と一体化してゆくことができる。あえてだれかを愛する必要もない、すべてが自然にアマチの意識の元にある海の世界へと溶けて行く、そこではきっとアマチともひとつにつながっているに違いない。