理性が沈黙にひれ伏す時

Gazou_272

やはり、ガンガジの本に、「理性が沈黙にひれ伏す時」という章がある。こうして文章で表現するということは、結局は、理性を使っていることになるが、それは沈黙へと向かう思考ともいえるかもしれない。

私たちはおそらく、肉体以上に、理性と自己を同一視しています。「理性」という言葉で私が意味するのは、「私とはこの肉体であり、私はこういう人であると思う。したがって、これが現実である。」という思考のことです。私たちは、思考に、自分が何者であるかを定義する権限を与えます。もし私が、肉体的な感覚・知覚に基づいて、あなたは私とは別の人であると考えた場合、その思考は現実の制定者としての権威を持ちます。

私たちの頭の中で、思考は神であり、同時に悪魔でもあります。良い思考と悪い思考の間には戦いが繰り広げられます。・・・中略・・・・・
しかし、見過ごされやすいのは、あなたの中心にはいつでも、平穏で、途切れることも、揺れ動くこともない意識(awareness)があるということです。あなたという存在の真の姿はすでに平穏であるということをあなたは見過ごしています。勝とか負けるとか、それはあなたの真の姿とは何の関係もありません。・・・・中略・・・・・

刷り込まれた思考による幻惑は深く、複雑ですが、「止める」というシンプルな行為に対して無防備です。あなたがこの、「止める」という一点を自覚するとき、あなたには本当の選択肢があります。このことに気づく前のあなたの思考は、過去のすり込み、欲望、嫌悪に基づいた、単なる機械的な理性の活動でした。・・・・中略・・・・

存在を思考するということは可能でしょうか。この質問は、思考の持つきちんとしたパターンを事実上崩壊させます、そして、思考のもつ巨大な幻想の世界からの落下、解放、救済の引き金となるのです。あなたが「私」と呼ぶもの、平衡保つ、バランスを変える、形は変える、再構築するなどの行為は、みな思考にすぎず、新しい思考が前の思考の上に次々と積み重なるにすぎません。思考することのできないものの存在に気づく瞬間、それは、あなたの真の姿に目覚める瞬間です。それは、理性が静寂にひれ伏す瞬間なのです。」

以上ガンガジ著「ポケットの中のダイヤモンド」より引用

そういえば、以前、転形劇場という劇団で研究生をしていた頃、「水の駅」という劇の制作の現場に立ち会ったことがある。その劇は、舞台の中央に水道の蛇口があり劇の間じゅう一定のリズムの水が流れ落ちていた。そこへ様々な想いをもった登場人物たちが現れ、その水を飲みそれぞれの人生の乾きを癒して消えて行くのである。かれらは、はじめは台詞が与えられていたのだろうが、劇は台詞を消した無言のうちに進むのである。
ただし、彼らは、台詞を消した分、身体からわき上がるエネルギーで様々な想いを表現していった。沈黙ではあるが、台詞がある以上に饒舌な舞台だったが、それは、ドラマでなく人間を存在そのものを表現する舞台だった。面白いことに見終わった後は、まるで神聖な場所に行った後のように浄化された気分になるのだった。

同じく大学の頃、能楽研究会に入って能を習っていたことがる。これもやはり存在の演劇と言えるだろう。そして、人を夢幻の世界に引きずり込む舞台装置といえるだろう。あの舞台の後ろに描かれている松の絵は、鏡板と言われている。すなわち、私たちの潜在意識がそこに映し出される。「そして、思考のもつ巨大な幻想の世界からの落下、解放、救済の引き金となるのです。」 と言われるように劇の最後には、すべて情念を出し終えて浄化された姿となって元の世界へと帰って行くのである。後には、ただ、松風だけが吹いている。松風ばかりやのこりけん。松風ばかりやのこりけんと。

 

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)