心の平安

昨日は、子供とお袋と3人でお昼を食べた後、カラオケに行って歌を歌ってきた。初めのうちは、あまり声が出ず、上手に歌えなかったお袋も最後の曲になる頃には、いつもどうりの調子がでていい声で演歌を歌っていた。そんなお袋も昨日の朝家に行ったら、涙ぐんでいた。どうしたのかと聞けば、「今日は、お父さんの命日で思い出すと悲しくなるんだよ。早くお前も仏壇に行ってお線香を上げてきな。」と言われた。そこで、仏壇にいくと線香を上げて手を合わせ般若心経を唱えた。

よくお袋に「お前は冷たいね。お父さんが死んでも悲しくないんかい。」と言われるが、そんな時は、「違うよ、ただ真理を知っているだけだよ。」と答えることにしている。

楽しければ笑い、悲しければ泣き、死ぬまで旅行を楽しみ、機会さえあれば未だに海外旅行でさえしたがっている。こんなお袋は幸せといば、幸せなのかもしれないが、本当の真理を知らずにこのまま終わってしまうとすれば残念なことだと言えるかもしれない。人間本当の苦しみを体験すれば、絶対的な平安の世界を求めるものなのだと思う。そういう意味では、苦しみこそ真理に至る契機と言えるだろう。

「自己なき自己」に「平安」についてまた素晴らしい言葉が載っていたので、また、少し引用してみたいと思う。

以下引用

マハラジ:瞑想とともに、浄化のステージが始まる。浄化とは、すべての概念が徐々に、静かに永続的に消えていくということだ。最初のうちは、身体レベルで多くのことが起きるだろう。ほんの少しの間だけ、スピリチュアリティを脇に置いて、事実を見なさい。

スピリチュアリティについては忘れなさい。存在する前、あなたは世界や家族や神について何も知らなかった。

すべての必要性と要求は、身体知識を通じてのみ確定される。もし、身体がなければ、家族もないし、妻や夫、子、父、マスター、弟子、神も必要ない。スピリットが身体にはまった瞬間、あなたは長い「欲しいものリスト」を持つようになった。「私は幸福が欲しい。平安が欲しい」等々。こういうものは概念だ。誰が平安を欲しいのか?あなたは平安が何かを知らない。「私は平安が欲しい」、「あなたは平安が欲しい」、これらは概念、ただの概念に過ぎない。あなたはいつこの平安に出会ったのか?

平安はある。それをかき乱しているのは、あなただ。平安はあるのに、あなたがそれをかき乱しているのだ。

以上引用終わり

平安が欲しいと思うのは、外に向かって自分の欲望(仏教では五欲と言って、食欲、色欲、睡眠欲、財欲、権力欲等があるという)を満たそうと動き回り、結局失敗し失望し心に傷を負いどうしよもない精神状態になってからだ。だから、一般的には、まだまだそれらを追い求めている人の方が多いのではないかと思う。

ところが、人間本当に苦しい状況に追い込まれると、心に平安が欲しいと必死で願うようになる。幸せな状態では、心の底から平安が欲しいとは、なかなか思えないものだ。欲望の赴くままあっちへふらふらこっちへふらふらと生きて、チ子ちゃんじゃないが、「ぼ~としてんじゃないよ」と怒られてしまう。

かつて、自分も精神的はショックを受け、心が壊れ、抑うつ状態になったことがある。その時は、般若心経を1万回唱えることで、時間をかけてしだいに回復することができた。3千回唱え終わるとだいぶ落ちついてきて、ある時、自分を苦しめていたのは、自分自身の中にある執着心だったということに気がついたら、それ以後一気に楽になった。だから、ラマカント・マハラジが言う。「平安はある。それをかき乱しているのはあなただ」という言葉の意味がよくわかる気がする。

般若心経を唱えるのは、身体にはまり過ぎて、肉体や物質に執着して困惑している自分の意識を肉体から引き剥がし、外から自分を照らすように冷静に見られるようになるための修練だ。それが進むにつれて、やがて心に平安が訪れるようになり、再び平常心をもって、日常を生きることができるようになる。

 

 

 

 

 

 

 

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