自分の内への幸せなリトリートが始まった

「自己なき自己」を読んでいるとしだいに外界との関係を持つのが億劫になり、自分の内への幸せなリトリートが始まる。リトリートは、よくヨガの合宿などで使われているが、元々の英語の意味は、退却、撤退や隠れ家、黙想などを意味していたようだが、今では、仕事や家庭生活から一旦自分を切り離し、どこか違う場所に行って自分を見つめ直し、リフレッシュすることとして使われているのだそうだ。しかし、この本を読んでいると、今ここ,この場所に居ながらにして、意識が日常から離れ自分の内面に向かって流れ始めることがある。これは、車を運転したり日常生活を送るのにはちょっと危険ではあるが、幸せな内面への退行とも言える。

考えてみれば、人の苦しみのほとんどが、自分を身体形態つまりは肉体と一体化しすぎて起きている。そして、不必要に細かい決まりごとを作って、自らそれにはまり込んで苦しんでいる。それは、まるで自ら掘った穴に落ちて苦しんでいるようなものだ。生命エネルギーの流れは、川の流れのようにアバウトだ、それを護岸工事によって直線的になった川のように決まりでがんじがらめに縛ったら、行き場を失って病気になってしまう。学校でも職場でもうつが増えて問題になっているは、そういうことなのではないかと思う。

だから、自分と肉体が必要以上に強く結びついて感情的になり、体にも異変がおきだしたら、いったん意識を肉体から切り離し、冷静になって見つめ直すことが必要だ。そのためにリトリートという言葉も最近はよく使われているのだろう。一般的にリトリートというと場所を変えて瞑想などをすることのようだが、「自己なき自己」を読むことによって、自動的にリトリートが始まってしまった。インドの聖者のところに行って瞑想しなくても、今ここで内面に向かえばそれでいいのだ。なぜなら、マハラジが言うようにマスターは、自分自身の中にこそいるのだから。

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