川の流れのように
昨日は、風の川について書いたが、アンマの文章のなかに川と言う言葉を見つけてので再び引用してみよう。
質問:若い頃アンマは、多くの苦難に遭わなければなりませんでした。それについて何かおっしゃりたいことがありますか。
アンマ:アンマにとって重要なこととは思えませんでした。この世の本質がわかっていましたから。ー中略ー
不平や悲しみは、自分が肉体そのものだと思う時に起こります。真の自己の世界では悲しみはありません。アンマが真の自己について熟考した時、アンマは流れのない池ではなく自由に流れる川であるということが明確になりました。
健康な人も病気の人もたくさんの人が川に来ます。水を飲む者、体を洗う者、洗濯する者、つばをはく者さえいます。川にとっては、どのように扱われようが重要ではありませんん。ただ、流れるだけです。川の水が礼拝に使われようが、入浴に使われようが、決して文句を言いません。川はただ流れ、中に入ると世話し、清浄にします。しかし、池の水は、流れず、清潔ではありませんし、においを避けられません。
このことを悟ると、苦難も、受けた愛も、一切影響がなくなりました。なにひとつ重要とは見えませんでした。悲しみは、「私という存在はこの肉体である」と思う時に起こります。真の自己の世界には、悲しみはありません。だれもアンマとは別々ではありませんでした。彼らはこの木に泥を投げましたが、アンマにとってそれは肥料に代わりました。すべてのことは、究極的に役立つためにありました。
美空ひばりの歌ではないが、自分を川の流れと思い流れ去ってゆけば、なんの問題もないようだ。池のように小さな肉体を自分だと思った時に、悲しみや苦しみにみまわれてしまう。つまり、自分はエネルギーの流れと意識すれば、実に自由で解放されてゆく。
肉体に固執することが、あらゆる困難の元にあるようだ。しばらく前までは、日本は平均寿命が世界一だとよろこんでいたが、今ではそれが重荷になって、国の将来が見えにくくなってしまった。ただ、肉体を一日でも長く生かそうとすることが、人々の精神を重くしている。永遠に流れ続ける川のようだと思いを変えれば、すいぶん楽に生きることができるようになるのではないだろうか。「青い海」の気功のように川のように海のようにゆったりとした意識の世界に自分を解き放つことが大切だ。
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