死んだら墓に入るのか
この間の日曜日に父親の三回忌を無事終えた。お寺でお経を上げてもらい焼香し、その足で親戚とお墓に向かった。うちのお墓は、親戚三軒と共同で持っている。少子化で墓じまいが増える昨今、一軒だけでお墓を持つのも大変なのではないかと思う。うちの母親が「生前は仲がわるかったけど、お墓の中で叔父さんとうまくやっているかね。」と言っていたが、「心配しなくても、肉体がなくなったら、そんな狭苦しい所になんかいなから、大丈夫だよ。」と答えた。だが、一般的には墓の中で儚い後生を送っていると考えている人が多いのだろうか。
ちょうど「自己なき自己」の中で死について語った所を読んでいたので、その部分を引用してみよう。
以下引用
質問者:自分の人生についてコントロールできないと感じることが、時々あります。
マハラジ:だから瞑想が必要なのだ。すべてが終われば、、あなたはそこにある。始まりもないし終わりもない。私たちがこういうふうに話をしているのは、ただ理解するためだ。スピリチュアルな議論はすべて、生まれていない子供についての議論だ。あなたはうまれていないのだから、何も起こっていない。
あなたの中の目に見えない臨在が消えると それは至る所に満ちる。
体が燃やされたら、神はどこに行くのだろうか?あらゆる場所だ。すべてが消えたら、何もない。
以上引用終わり
それは、例えて言えば、海の中で水風船に針をさして弾けば、海の中そこらじゅうにその水は広がって、後に残る形は何もないのと同じということだろう。これが、般若心経の言う所の一切空ということだと思う。であれば、本当の所、わざわざお墓に行ったり、供養したりといったことはあまり意味がないということになる。ただそうして、生きている者が、死者のことを弔う意志で再会し、ご馳走を食べて楽しく語り合うことに意味があるのだろう。特にうちの場合は、一人面白い従兄弟がいて、その馬鹿話に毎回爆笑してしまうというにぎやかな法事になってしまう。