拈華微笑(ねんげみしょう)

昨日、毎週往診に行っている患者さんが突然亡くなられたという話を聞いた。その日も施術するつもりでいったのだが、、あまりの急な話しだったので驚いた。その患者さんは、施術を受ける時は、いつも目を閉じていて軽く微笑んでいるような顔をしていた。そして、時々、ブファファファと吹き出すように笑うことがあった。

ちょうど前々回の施術の時、いつもそこでの仕事をサポートしてくれる人が、ある人に瞑想を勧められているという話をしていた。そこで、両手の中指を眉間に沿って真っ直ぐに上げ、額の上に突き当たったら左右に分けて降ろしてきて、顔の横を通して目じりを下げて顎の下で合掌してハートの前で止めると脳の中心が開き、リラックスして瞑想状態に入ることができますよと説明した。そして、この患者さんの顔をさして、「ほら、こんな表情です。眉間のアジナチャクラの所が開いて仏様のような顔をしているでしょう。」と言ったばかりだった。

確かその時にえんげ微笑とか言って説明したような気がしたが、よく調べたら拈華微笑だった。 自分のあやふやなイメージとしては、樹の花の下で釈迦がその花を手にして微笑まれた所、迦葉尊者だけが微笑み返してその意味を理解したと思っていた。ところが、よく調べてみると、「インドの霊鷲山(グリドラクータ)上で釈尊が黙って華を拈(ひね)ったところ、会座の衆はその意味を理解することができなかったが、迦葉尊者だけがその意味を理解して微笑した。」(ウィキペディアより引用)ということだった。

この言葉は、「禅宗において禅の法脈を釈尊摩訶迦葉に微妙の法門として付嘱したとする伝説のこと。禅宗の起源を説く寓話であり、公案の一つでもある[1]代以降の禅宗において、不立文字教外別伝の立宗の基盤を示すものとして重用された。」(ウィキペディアより引用)とある。

まあ、難しいことはよくわからないのだが、要するに、悟りの境地は言葉では伝えることはできず、以心伝心によって、直接相手に悟りを伝えることしかできないということなのだろうか。

話を元に戻せば、その患者さんの微笑みが、彼女のこの世での修行の完成を意味していたのはないかと思う。その人には、知的な障害があり、表面的には何も分かっていなかったのかもしれないが、深い意識の中では、すべてを了解して、この世の修行を終えて無事彼岸へと旅立つ準備が整っていたのかもしれない。誰しも本当に心の底から微笑むことができるようになった時、涅槃の境地へと至ることができるのだろう。

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