世界が内にあるのか外にあるのか

先日、群馬の高山村に漢方の話を聞きに行ってきた。なんでも九州で漢方薬で治療している医師がいて、友達の住む高山に来てくれるとのことで行ってみた。反骨精神盛んな面白い先生だった。腸内環境が大切で、ちょうど樹木の根のような働きをしていると言っていた。確かにその通りだと思う。ただ、科学的に捉えようとする姿勢は、やはり心身を外から見る視点なんだなと思った。自分がやっている治療とは、何かが違うと感じた。後で家に帰って考えたら、それは「世界が内にあるのか外にあるのか」の違いだと気がついた。

瞑想や気功あるいは読経をしていると次第に思考が溶けて、エネルギーや音、波動と一体化してくる。そして、そのような姿勢で患者さんに接触する時は、患者さんの命の流れを身体全体で聞き取ろうとしているし、そのエネルギーの流れを感じることで、まるで自分の一部のように感じている。つまり、その時、患者さんは、観察されるべき客観的な対象ではなく、自分と一体化した一つのエネルギーの流れとなっている。

昨日も車のタイヤを交換しなければと思って、タイヤ屋さんに行った所、まさに来るのを予知していたように同じサイズのタイヤがあり、しかもリーズナブルな価格だったので、すぐに購入して交換してもらった。普通、そのタイヤのサイズは、珍しいとみえてなかなか店に在庫がなく、たいていの場合、取り寄せになってしまうのだった。こんな風、毎日、般若心経を唱えているとすべてのタイミングが合って来る。それは、宇宙が自分の外にあるのではなく、しだいに自分の内側に入ってきて、自分と一体化して来たせいなのだと思う。逆にとらえれば、小さなの自己の殻から解放されて、宇宙のエネルギーの流れと一体化してきたとも言えるだろう。すべてを外にある物として捉える方法には、限界があり矛盾が生じる。今の医療の問題点も、そうした視点の間違いに起因しているかもしれない。

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