人生100年時代は幸せか

最近は、テレビで人生100年時代に備えて保険の見直しをとかいうコマーシャルをよくみるようになった。ニュースでも少子高齢化を踏まえて年金制度を見直し、年金の支給年齢を70歳まで引き上げるような報道を目にする。こんな報道を見るといたずらに不安を煽られ、なんだかますます生きていることが楽しくなくなってしまう。なぜ、こんなことになってしまったかと言えば、自分を肉体と錯覚して、死の恐怖を遠ざけ一日で長く生かすことが医療の使命だと誤解していることから起きているのではないかと思う。死ぬまで働き続ければならないなら、長生きに何の価値があるというのだろうか。そろそろ延命第一主義の間違った考えから卒業してもいい頃だろう。この肉体を離れて本来の自分に帰るということは、素晴らしいことなのだから。

また、「自己なき自己」の中で死について語っている文章があったので、マハラジの言葉を引用してみよう。

以下引用

マハラジ:(前略)
      すべての身体知識が消えるときが来るまで、あなたは不安定に感じ、変化や浮沈みを経験するだろう。これは明らかな真実だ。明らかな真実、最終的な真実だ。

身体との誤った関係性により、あなたはこの真実を受けれることができない。

質問者:どうすれば、その関係性を取り除くことができますか。?

マハラジ:瞑想が唯一の方法だ。それは、映画のフィルム上の映像をきれいに消してしまうようなものだ。瞑想によって「私は生まれ、死ぬ」というような幻想の思考や概念のフィルムをきれいにするのだ。幸福、不幸、孤独、希望、恐れ、記憶、こういう概念はすべて、なくさなければならない。すべて、消えなければならない。

最も重要な概念は、「私はいつか死ぬ」だ。皆が死を恐れている。死が好きな者はいない。

身体は死を経験する。しかし、もっと深く分け入って「もし私は生まれていないし、生まれなかったのなら、では誰が死ぬのだろう?誰が死ぬのか」と自分に尋ね、その答えを見つけなさい。死と誕生は体にのみ関係している。体は私のアイデンティティではない。これは明らかな真実だ。体がいつか埋めれるか燃やされることは間違いない!避けることはできない。!スピリチュアリティは忘れてしまいなさい!
 これは合理的で論理的な考え方だ。もし、体は自分のアイデンティティではないということを受け入れれば、その論理に従って、死もないということになる。この結論は疑いようのないものだ。死を恐れる必要などあるだろうか?

以下引用終わり

すべての間違いの始まりは、自分を肉体と錯覚することから始まっていると言っている。もっとも肉体がなければ、この世に存在し、人と会い、会話し、触れ合い、愛し合うことも家族をつくることも何もできないのだから、錯覚しても当然といえば当然なのだが。しかし、その肉体を超えた普遍的な存在が本来の自分であることに気づくなら、当てにならない年金を気にしたりして無理して長生きをする必要もないし、死を恐れて遠ざけるために必死で健診を受ける必要もない。もっと自由に楽しく今ある命を楽しみ、本来の自己に出会えるように瞑想なり読経などをして日々深い意識の状態に入れるように努めていればいい。また、その時が来たなら、「死ぬる時節には死ぬがよく候」と言った良寛さんのようにたただ素直にそれを受け入れればいいと思う。そうすれば、自分も社会も明るく楽しいものとなるだろう。

 

 

 

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