死の谷を越える道
若いうちは、いくつもの可能性に満ちた道が、自分たちの前に無限に広がっているように見えた。しかし、年を取ってくると、その道が次第に狭まり、ある一つの道しか残されていないことに気づくようになる。それは、死の谷に落ちるかあるいは、それを超える道だ。自分の場合は、子供の頃からこのことがわかっていた、子供の頃、父親が運転する車の後部座席で星空を見ながら、この人生もあっとい間に終わってしまう短いものだなと思った。
そして、子供の頃から、渡り棒をしながら、死ぬまでにこの渡り棒を渡りきることができるのだろうかと考えていた。つまりは、彼岸へとつながる渡り棒のことだ。中学生の頃、夜、ベッドの上で頭の中でお経が聞こえてきた。不思議な感じで、つるつるのお坊さんの頭が浮かんできた。しかし、なんだか皆同じに見えて、出家してもつまらいように思えた。大学に入り、能楽研究会に入った。学部は、法学部だったが、邦を楽しむ方に熱心になった。つまりは、法学とは、方角が違ってしまった。そして、一年、留年すると赤坂にある転形劇場という劇団の研究生になった。友達に紹介されて行った公演を風邪を引いて見に行って、見終わる頃には、その劇団の熱気で、風がすっかり治ってしまっていたからだ。その劇団の演出家は、太田省吾さんという素晴らしい人だった。今でも、サティの曲に乗って、水の駅という無言劇の舞台稽古の時、彼の吸うたばこの煙がゆったりと揺れながら、螺旋を描きゆったりと上昇していたのを思いだす。
劇団の研究生と大学を卒業するといったん郷里の渋川に戻って、実家の酒屋を手伝った。そして、バイクで屋久島まで旅に出た。その時は出家して修行するかどうか迷っていた。旅の最後清水のユースで館山で太極拳を教えている山口博永老師に電話して、これから行ってもいいかと尋ねた。突然の連絡だったので、断られたので、いったん実家に戻り、鍼灸学校に入ることにして、再び、東京に出てきた。そして、館山に禅と太極拳を学びに行きながら、渋谷の鍼の専門学校に通った。指圧は、金町の鈴木先生の所へ、経絡指圧を習いに通い、鍼は、我孫子の横田観風先生の無為塾へと習いに通った。特に無為塾には、インドへヨガを習いに行った人や様々なユニークな先輩方がいて刺激的だった。その後は、無償の愛で世界中をハグしてまわるインドの女性の聖者のアンマを知り、彼女のダルシャンを受けに東京の会に10年通った。最後は、インドのアンマのアシュラムまで行ってきた。そういえば、博永師とは、太極拳を習いに中国河南省の陳家溝まで行き、比較的近くにあった少林寺へも行き、ダルマ大使が座禅した洞窟まで行ってきた。
実生活では、一浪して一留、そして、バツイチとあまりうまくいっているとは言えないが、本当の道に関しては、いつも彼岸に渡ることを意識して生きてきた。すでに60歳を過ぎて人生の起承転結も最後の20年、結果を残すべき時に来ている。死ぬまで果たしてこの渡り棒を渡りきることができるのかどうか、これからが踏ん張りどころである。そして、いろいろな聖者に会い、いろいろな修行もしてきたが、最後に般若心経に出会い、日々、動画を作ったり唱えたりしている。簡単でだれにでもできて奥が深い、多くの人とこの橋を渡れたらと思う。
般若心経のこの最後の言葉は、
羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶 (行こう、行こう、この橋を渡りきって 彼岸に至り悟りを開こうと言っているように思える。)