さらに続けて要約して引用してみよう。
質問者:人の人生における顕著なできごとが、カルマによってすでに決定しているのはわかりますが、人生の取るに足らない些細なことにいたるまで決定されているのでしょうか。
マハリシ:もちろんだ。なんであれ、この身体がすること、そして、何であれそれが通り抜ける体験は、その身体が存在を現した時にすでに決定されているのである。
質問者:それでは、人の自由や彼の行為にたいする責任はどうなるのでしょうか。
マハリシ:人が手にできる唯一の自由とは、努力をしてジュニャーニを得ることである。それが彼と身体との同一化を断ち切る。身体はプラーラプダによって宿命づけられた、避けることのできない行為を通り抜けて行くだろう。人は身体と彼自身を同一視し、その身体の報いに執着するか、あるいはそれから離れ、身体の活動の単なる目撃者となるか、という選択の自由だけをもっている。
この世の人生は、舞台の上の人生と同じようにすでに脚本があり、決定しているという。ただし、舞台で演じているのとは違い、身体を通して実際に体験すると喜びも悲しみ苦しみも非常に強く感じる。能の世界では、「離見の見」と言って、ある役を演じつつも外側からその演じている自分を見ているということが大切と言われている。実際の人生においても、ざまざまな出来事に対して、巻き込まれることなく冷静に外側から自分を見つめる目が必要だろう。そうすれば、苦しみや悲しみに落ち込むことなく、正しい選択を通じて、永遠の喜びの中にとけ込む選択をすることができるよになるだろう。
自由意志について、また、「あるがまま」から引用してみうう。
質問者:現在の状態は、過去のカルマによると言われています。私たちは、今、自由意志によって過去のカルマを超えることができるのでしょうか。
マハリシ:現在とは、なんなのか、それを見てみなさい。もし、そうするなら、何が過去や未来をもち、それらに影響されるのか、何が永遠に存在し、何が常に自由なのか、そして、何が過去や未来やカルマに影響をされずにとどまるものなのかを、あなたは理解するだろう。
質問者:自由意志とは、存在するのでしょうか。
マハリシ:誰の意志だろうか。行為者である感覚があるかぎり、それを楽しむ感覚と自由意志の感覚は、存在するだろう。だが、もしこの感覚がヴァイチャーラ(真我探求)の修練によって失われたなら、聖なる神の意志が働いて、出来事の流れを導いてくれるだろう。ジュナーニによって運命は克服される。真我の知識は、自由意志も運命も超えているからである。
私が行為しているという感覚があるかぎり、自由になにかを決めているという感覚はあるが、その行為の結果としての果実である喜びや悲しみ、苦しみを受け取らざるを得ないが、もし、そうした感覚が真我を実現することで失われれば、物事は自然と神の意志にしたがって流れて行き、苦しみや悲しみから解放されると言っているのだろう。
真我に焦点を合わせるということは、回転する木馬の中心に座るように、絶対の平安の中に安住し、ただ、すべてを眺めているということだろうか。そのような心境にいたれば、運命に左右されることもなく、自由とか不自由とか問題にすることもないのだろう。
アンマを見ていると、生き生きとして、子供のように純粋で活動的で、ただ座っているだけが聖者ではないということがよくわかる。
カルマは、日本語でいうと業とでもいうのだろうか。元々は単に行為を意味する言葉のようだが、その行為の結果のこともカルマというようである。原因と結果の因果の法則にのとって、良い行いをすれば、いい結果を受け取り、悪い行いをすれば、悪い結果を受け取り、苦しみの原因となると考えられている。上の写真の麦の色もカルマの結果といえるだろう。エゴを消して精神的に高まって行けば、麦のように金色に輝くこともできるのだろう。収穫期になると、なぜこうした見事な色で輝くのか、実に不思議なことだ。
道元禅師の言葉にも、善悪の報に三時あり、一つには順現報受、二つには、順次生受、三つには、順後次受とあるが、インドでもカルマを三つに分けるようである。
以下にまた、「あるがままに」から引用してみよう。
1,サンチタ・カルマ 前生から積まれてきたカルマの蓄え。
2,ブラーラブタ・カルマ サンチタ・カルマの一部で現世で清算されなければならないもの。カルマの法則は人間の活動における決定論を意味するため、プラーラブタはしばしば運命と訳されている。
3,アーガミー・カルマ 現世で積まれた新しいカルマ、この一部が来生に持ち込まれる。
質問者:この身体が終わるまで続くと言われているプラーラブタ・カルマを、身体が存在するうちに克服することができるでしょうか。
マハリシ:できる。カルマは、身体と真我の間に生じた自我と呼ばれる行為者に依存してる。
自我がその源の中に溶けて姿を消してしまえば、それに依存しているカルマも生き残ることはできない。それゆえ、「私」がないところにカルマもない。
質問者:プラーラブタ・カルマは、前世から積まれてきたカルマの小さなひとかけらにすぎないと言われています。これは本当なのでしょうか。
マハリシ:人は前世で多くのカルマを積んできたかもしれない。そのなかのわずかのものだけが、この生のために選ばれ、人はその結果を現世で味わうことになる。それはちょうどスライドの展示会で、投影する人がショーにだすスライドだけを選び取り、残りのスライドは次のショーのためにとっておくようなものである。これらのカルマはすべて、真我の知識をうることによって破壊される。過去の体験の結果であるカルマがスライドであり、心が投影機である。その投影機が破壊されなければならない。そうすれば、これ以上の投影はなく、これ以上の誕生も死もないだろう。
誰もが、真我に到達するというのは、無理なような気がする。しかし、こうした知識に立脚した社会を作ることは可能だろう。そうすれば、この世の矛盾も混乱も収まり、安定した平和で豊かな社会を作ることができるように思う。
以上「あるがままに」から引用
さらに引用してみます。
質問者:苦しみがやむのはいつのことでしょうか。
マハリシ:個我が失われるまでは無理である。善行と悪行がいずれも神のものなら、どうして喜びと苦しみだけがあなたのものなのか。善と悪を行う人が喜びも苦しみも味わうのだ。あるがままにあらしめなさい。そして、自分自身に苦しみを押しつけるのはやめなさい。
質問者:なぜ、苦しみが存在しないと言われるのでしょうか。私はあらゆるところに見ているのです。
マハリシ:ハートとしてすべての人の内に輝く自己の実在は、純粋な至福の大海である。それゆえ、空の青さが実在でないように、苦しみも実在ではなく、単なる想像の中にしか存在しない。無知の暗闇に妨げられることのないジニャーニの太陽は、自ら幸福として輝いている。それこそが自己の実在であり、苦しみとは個人という偽りの感覚から生まれた幻でしかない。実際、幻として以外に苦しみを体験した人はだれもいない。もし、至福である真我を探求すれば、生涯苦しみを味わうことはないだろう。身体が「私」であるという観念、ただその妄想だけが苦しみの原因なのである。
では、どうやってその妄想から抜け出すか。自分の場合は、「青い海」の気功を教えることと、般若心経と唱えることで回復しました。この世の一切が「空」である。といういことを繰り返し繰り返し身体と心に染み込ませてゆく、実際に声を出し、全身の細胞を振動させることで、しだいに苦しみの原因となっていた心の傷が癒されて行きます。方法として単純でやる気さえあれば、だれにでもできるので、お勧めです。なにも高いお金を払って誰かや何かに依存しなくても、自然と精神の健康が回復してきます。「青い海」の気功は、精神的、肉体的な緊張をほぐし、しだいに緊張した意識を溶かして行き、心を浄化して、子供のころのような純粋な意識の状態にもどすのに効果があります。やがて、心臓のなかが温かくなるよに感じ、大海に溶けたような喜びを感じることができるようになるでしょう。
私たちの本来の姿は、至福の大海だそうですので、できるだけたくさんの人がそのことに気がつけば、世の中は、もっと明るく生きやすいものとなるでしょう。
久しぶりにラマナ・マナリシの本が帰ってきたので少し読み進んでいる。その中に、輪廻転生についての記
述があるので紹介してみます。
質問者:輪廻転生は真実でしょうか。
マハリシ:無知が存在するかぎり輪廻転生は存在する。本当は、輪廻転生などまったく存在しない、いまも、いままでも、これからも、これが真理である。
実に明確な答えだ。こうした明快さが、ラナマ・マハリシのすばらしいところだ。昔、禅と太極拳の師匠にこのことを聞いたところ、なんだかわかったようなわかないよな答えをいただいた。その辺のところが、仏教では曖昧なのだろうか。その辺の質問があるので引用してみます。
質問者:仏教の見解には、個人の魂という概念に一致した転生する実態は存在しません。これは正しいのでしょうか。これは、輪廻転生する自我というヒンドゥー教の概念と一致するのでしょうか。魂とは、ヒンドゥー教の教義が示すように、何度も何度も生まれ変わる実体なのでしょうか、それともそれは単なるサンスカーラ、精神的傾向の集合体にすぎないのでしょうか。
マハリシ:真我は永遠に存在し影響を受けない。転生する自我はより低い次元、つまり想念の次元に属している。それは真我実現によって超越されるのである。
輪廻転生は、ヒンドゥー教の偽りの分派による概念である。それゆえ、それは仏教徒によって否定された。現状における無知は、意識(チット)と生命のない身体(ジャダ)の同一視によるものである。
質問者:私は輪廻転生からまぬかれるように試みるべきではありませんか?
マハリシ:そのとうりだ。いったいだれが生まれ、誰が今、現在の問題を抱えているのかを見いだしなさい。眠っている時、あなたはあなたの輪廻転生や現在の生について考えるだろうか。それゆえどこから現在の問題が生じたのかを見いだしなさい。そこにあなたは解決を見つけるだろう。あなたは誕生も現在の問題も、不幸も存在しないことを発見するだろう。真我がすべてであり、すべてが至福である。今でさえ、我々は輪廻転生に対して自由なのだ。なぜ、それについて嘆き悲しむのか。
以上「あるがままに」ラマナ・マハリシとの対話より引用
チベット仏教では、転生仏がいて、彼らは、生まれ変わると言う。実際に悟りが継続しているかどうかが問題だろうが。なかには生まれ変わりが二人いてもめているところもある。真我を悟るということからすると、少し無理がある考え方なのかもしれない。
その点、ラマナ・マハリシの説明は、簡潔である。だれもが、今この瞬間に輪廻転生から自由になることができるし、実際は自由だと言ってくれている。この本の表紙にある彼の澄んだ目がすべてを語っていてくれている。
いよいよ話は、佳境に入ってきます。
「はじめの出来事は、ちょうど今年の夏も終わるアンマの誕生日の直前のことでした。
その晩アンマは部屋の外に出て、来客と時々お会いするための小屋のそばにいました。そこはジャスミンの茂みがあり、よい香りを放つ花がたくさん咲いていて、地面に落ちていました。落ちている花を見て、アンマは思いました。
「この花は、多分泣いている。自分たちは地面に落ちてしまって、もう神に捧げられることはない、と思って悲しんでいる」
それでアンマは花を幸せにしてあげたいと、その花を拾い始めたのです。・・・・・・
ある人が
「海のために花飾りをつくるのですか。」と尋ねたのです。それを聞くとにわかに4,5人が、アンマに同じことを考えていたと言い出しました。そして、みんなはアンマに海に花を捧げるかどうか尋ねはじめました。
アンマはそれを聞いて、たぶんこれは海がそうアンマに伝えたがっているのかもしれないと思い、針と糸をもって来るように言って、花輪をつくり始
めたのです。やがてアンマは自室に戻ってくると新鮮なまま冷蔵庫にしまっておくようにおっしゃいました。海岸に行く途中に何人かの修行僧にすれ違った時、アンマは彼らに向かって、海に花輪をあげたいのだけれど、それは海が自分で取りに来たらあげるのだとおっしゃっていました。アンマたちが浜辺につくと、アンマはいつものように岩の上に登ってすわり、しばらく瞑想をしていました。その後で私から花輪を受け取り、右手を前にまっすぐ伸ばして花輪をその手に握りしめたまま、、アンマは海に向かってこうおっしゃいました。
「さあ、もし、本当にこの花輪がほしいならば、ここに来て私を包み込み、この手から花輪をもっていきなさい!」
私は微笑みながらも、同時に少しがっかりしていました。海面は、二、三メートルも下にあり、波がそんなに高くなることは絶対にありえない、海が花輪を取りに来るのは不可能だと知っていたからです。
しかし、アンマのその言葉が言い終わるか終わらないかのうちに、急に下の方から巨大な波がせり上がってきてアンマの頭上まで高くあがったか
と思うと、今度は上からもう少しでアンマを押し流してしまうくらいに強い力で打ち寄せていったのです。でもアンマはなぜか流されずに座ったままで、波はアンマの手から花輪をもぎとると、下の海へと戻っていきました。
私は驚愕して、アンマと海のあいだにある愛の深さに、目をみはって言葉もありませんでした。」
海は命の故郷。私たちも背骨のかなの脊髄液という海に、未だに浮いて思考しているのかもしれません。「青い海」の気功で意識の海にとけ込む時、海と私たちは一体化します。でも、アマチのようにその海を動かすことのできる人は、めったにお会いすることができません。
昔、船の上から空き缶をすてる人を見て、不思議に思いました。なぜなら、海も私たちも一体なのだから、それは自分自身の身体の中に空き缶をすてるのと同じことだからです。
さらに引用をつづけます。
「アンマが子供のころ、誰からも、家族からも見放されていたときに、海はアンマの慰めでした。アンマは自分の悲しみ、喜びのすべてを海に語りかけました。海に向かって歌をつくり、神を求める歌を歌っていたのです。
最近まるでアンマは、そのころに戻ったようなところが少しあります。たとえば二ヶ月まえほど前にアメリカ・ツアーからインドにもどってきたころ
から、アンマは毎晩のように海岸に通うようになったのです。アンマのアシュラムは細長い土地にあって、その土地の西側は、洋々たるアラビア海に面していま
す。アンマの部屋から海岸までは、歩いて三分とかかりません。浜辺には、巨大な岩が防波堤として築かれていて、村が海に浸食されるのを防いでいます。
毎晩、アンマは、海面から二メートル以上高いこの岩の壁の上にすわって、二、三時間瞑想に没入するのです。それからバジャンをいくつか唄い、浜辺ぞいにもう、二、三時間歩き、そのあとやっとアシュラムに戻るのです。
・・中略・・・・
わずかのあいだでしたが、アンマは私に浜辺に同行することをお許しになりました。そこで体験したいくつかの出来事を、みなさんにお話したいのです。
それは、海やすべての自然は生きていて、それぞれが意識や感情をもっているアンマが尾おっしゃる言葉を、明らかに証明します。
一度、この真実を悟れば、自然に危害をくわえつづけることはできなくなります。木を切り続け、水を汚し続け、自然から奪い続けることはできなく
なります。そのことに関してアンマは何回かいろいろな警告を発して、私たちが害をなし続ければ、いつの日か母かる大自然は反発して反撃してくるとおっしゃ
いました。そのことについて、お話したいのです。」
ミャンマーでは、サイクロンで、中国では地震でひどい被害がでてしまいました。日本も地震大国ですから、ひ
とごととも思えません。今日もホームレスの男性が、以前、女子大生に放火されたというニュースを聞きました。自然や動物に対してどころか、人間に対しても
危害を加えるようになってしまった最近の若者はどうなってしまうのでしょうか。人間としてなにか大切なものを無くしてしまったとしか言いようがありませ
ん。
そんな時、アンマの素朴で力強い歌声を聞くとほっと救われた気持ちになります。そして、一方で、最近、アンマのところへくる若者の姿が増えているのも事実です。アンマの教えがたくさんの人々に本来もっている人としての優しさを思い出させてくれるではないかと思います。
さらに続けて引用します。
「神を体験することは、この一体感をあらゆる物、あらゆる人の中に体験することです。一人や二人ではなく、ありとあらゆるものと一体になるのです。その幸福はたとえようもないものだと、アンマはおっしゃいます。
海を見ると、私たちはその幸福をかいま見ることができます。海は私たちに広大な本当の姿を思い出させてくれるからです。海はアンマにとって、格別にひかれる相手のようです。それは、海がアンマの本当のお母さんであるかのようです。」
「青い海」の気功をしているとしだいに意識は海の中へと溶けて行きます。その海は、次第に宇宙へと広がり、最後は光そのものへと変化してゆきます。いつしか、自らも光そのものとなり、
光の海で泳ぐのです。二年前にアマチが来日した時にダルシャンをしている会場の2階で、「青い海」の気功を教えさせていただきました。その写真を
見てアマチがにこりと笑ったといいます。きっと、アマチは海に溶けた私たちの意識が、アマチの大きな海のような意識の一部として揺らめいていたのを知って
いたに違いありません。
二年前の夏にインドのアマチのアシュラムに行った。シンガポール経由で、アシュラムに着いたのは、夜中の3時頃だったろうか。とりあえず、部屋に案内されると、ひとりがらんとした部屋で波の音を聞きながら眠りについた。アマチのアシュラムは、アラビア海にめんしていて、海がすぐ近くにあった。
アマチの「人と自然と」という小冊子を読んでいたら、ラクシュミという女性のお弟子さんの「アンマと海」という文章が載っていた。ちょうど「青い海」の気功とも関係があるので、引用してみようと思う。
「皆さんにアンマと海のつながりについてお話したいと思います。
海という言葉を聞くだけで、私たちは広がって大きい感じを想像します。その果てしない美しさを見るとき、心配ごとはすべて忘れられてしまいます。波の音を耳に傾けているだけで、心は静まってきます。
なぜ、みんな海を見るのが好きなのでしょうか?その広大さ、果てしない広がりのためではないでしょうか。そこにはしきいのない、境目のない、ひたすら無限に尽きない美しさがあるからです。
私たち一人一人はみな、心の奥に海があります。至福の海です。それが私たちの本当の姿、つまり、すべてにまねく宿り、境目がなくひとつながりで区別をしらない本当の自分です。
でも、それが本当の姿なのに、私たちはそれを見失ってしまいました。しかし、ひとつながりである感覚こそが、私たちが求め、切望してやまないものなのです。だから知らず知らずのうちに私たちは他者との関わりの中にその一体感を見いだそうとします。
人と人がたがいに深く愛しあうとき、自分のことはすっかりと忘れてしまいます。それはまるで、この一体感を体験したいがために、相手の中にとけ込もうとするかのようです。私たちは、たがいの距離がまったく無ければよいと願います。自分の限られた人格の殻から抜け出て、相手の中で一つになりたいと望みます。こうして一体となることに、私たちは幸福を感じるのです。」
生身の人間のなかにこの一体感を求めることは、一時的には可能だろうが、最終的には残念ながら裏切られることが多いように思う。「今生は、だめだから、また、来世できっとあなとを探し出す」なんて言われても、きっとそういう人は、また、同じことを来る返すにちがいない。
そういう人に対しては「残念まがら、来世はもう生まれてこないので」と断るにこしたことはない。どうせ恋をするなら、けっして裏切ることのない、海のような愛をもつアマチのように純粋な意識に到達した聖者に恋をするにこしたことはない。
「青い海」の気功は、ただ鯨のなきごえが入った海の音楽を聴きながら動くだけで、しだいに意識が溶けて、その広大な海と一体化してゆくことができる。あえてだれかを愛する必要もない、すべてが自然にアマチの意識の元にある海の世界へと溶けて行く、そこではきっとアマチともひとつにつながっているに違いない。
再び引用してみよう。
パパジ:ここに誰か仏教徒でこの言葉についてよく知っている人がいるかね。
質問者:「真如」という言葉に加えて、仏陀は彼自身を表すために「彼方へと超えた者」(タターガタ Tathagata)という言葉も用いました。
パパジ:そうだ。その両方の意味を私は聞いたことがある。私はパーリー語を知らないため、これらの言葉に確かな注釈をつけることはできないが、「このように来るが」私の聞いたこの言葉のもう一つの訳語だ。それは「この瞬間」「この存在」を示している。
仏教徒は、「往けり往けり、彼岸に往けり」と言う。あなたは彼岸に往く、だが彼岸おも超えて行くのだ。それからあなたは、彼岸の彼方へと超えて行く。彼岸へと向かっている間は、あなたはまだ、二元性のなかに、まだ心の中にいる。方向や目的地について熟考することはできる。だが、心を終焉させるには、あなたは心の定めた目的地のさらなる「彼方の彼方へ」と超えていかなければならないのだ。
心が消え去った瞬間を示すもう一つの言葉がある。それは心が形のない彼方に消え去った後に続く「スヴァーハーswaha!」という感嘆句だ。私はこの言葉について多くの人に尋ねたが、一度も満足のいく答えを得られなかった。これが心が消えてゆく瞬間の最後の言葉、あるいは実際に心が消え去った後の言葉だ。それはなんの特定の意味を持たない。心にはその瞬間を理解し描写することができない。それゆえ、その場所から現れる言葉に、心が理解できるような意味を与えることはできないのだ。
覚醒の後言葉がある。その場所で私たちは何にしがみつけるというのだろう。智慧、悟り、解放、自由にしがみつけるというのだろうか。そこではこれらの言葉さえ役にたたない。ここではすべてが終わる。サンサーラもニルバーナも消え去った。それらは相互に関係しあって存在していたのだ。心は終わり、顕現は終わり、創造者は終わり、創造も終わった。「内に宿る」者は完全に消え去った。これが心から、終わりのない輪廻転生から、顕現からの完全な解放だ。それは一瞬にして起こる。
ギャーテー、ギャーテー、ハーラー、ギャーテー、ハラソー、ギャーテー、ボジーソワカー、
と日本語では、唱えている般若心経の真言には、こんな意味があったということがはじめてわかりました。プンジャジがいうと真理は実に簡単明瞭です。般若心経の解説書は最近たくさんでていますが、ここまで簡潔にその意味を説いた本はないように思います。それは、彼が自分の言葉で自分の体験から語ってくれているからでしょう。
もうすぐ一万回ですので、この言葉をかみしめながら唱えて行きたいと思います。
プンジャジの「覚醒の炎」を読んでいたら、般若心経のことががでてきた。ちょど般若心経を唱え続けて一万回に近づいているので、完全に本とシンクロしているようだ。真我がしだいに近づいてきているのかもしれない。
「感覚はいつも過去のできごとにしがみついている。心はその感覚を通してあなたを過去へと連れ戻す。あなたが見るものはすべて心の創造物であり、心は常に過去のなかにある。時間の存在しない現在の瞬間には、心は存在しない。心がどこから現れるのかを見いだしなさい。
そして、それがその場所に消え去るのを見守りなさい。そうすればあなたは時間もその場所に消え去ることを発見するだろう。心の消滅は、あなたが心配しなければならないようなものではない。あなたはそれなしでも充分生きていけるのだ。私が語るその場所には「心」という言葉も他の言葉も存在しない。あなた自身に語るために言葉はいらない。
言葉が現れると、それはあなとを真我から連れ去ってしまう。言葉は、常にあなた自身の沈黙にとっての、障害、障壁、弊害なのだ。あなたが真の我が屋で楽しんでいる時、それを描写するための言葉は入り込まない。沈黙は、言葉や時間に遮られることのない絶えざる流れだからだ。
これが超越の場だ。それについて語るものは誰もいない。それを描写するために言葉は当てはまらない。仏教徒にはそれを指し示す良い言葉がある。「タタターtathata」という言葉を聞いたことがあるだろうか。ふつう、それは「真如」(あるがまま)と翻訳される。それはただそうであるものなのだ。もし言葉をもちいなければならないなら、このような言葉をもちいるがいい。あなたの心にあたらしい概念を吹き込まなもの。根底にある真理をただ指し示す、あるいはほのめかすだけのものだ。」
「時間の存在しない現在の瞬間には、心は存在しない」この言葉は、おおいにヒントになりそうだ。今というこの瞬間は、時間から解放されていたのかもしれない。時計を意識することが「時間」を生んでいたといことだろうか。この言葉をマントラのように唱えるといかもしれない。「真如」という言葉も「あるがまま」と訳されると実にわかりやすい。自然に身体に入ってくる。この言葉をウィキペディアで調べたら実にわかりにくかった。すでに概念化されてしまったいたからだろう。真理は、シンプルでわかりやすいものだ。概念化された言葉は、凍った水のようなもので、自然に身体に流れこんできてくれない。だから、プンジャジのように実際に体験した聖者の言葉必要なのだろう。
この続きは、また、次回に!
プンジャジの本を読んでいたら、「信心銘」がでていたので驚いた。このお経は、以前、太極拳を習っていた時に、その会の基本のお経として唱えていたものだ。あのころは、言葉も難しくなんとんなくわかったような気になっていたが、プンジャジの本のなかで、意訳された文章を読んで、その意味がよくわかった。螺旋の階段を長い年月をかけて登ってきて、今、また同じような位置にいるようだ。その意味するところをよりシンプルに端的に理解して、以前よりは深まっているが。
至道無難、唯嫌揀擇、但憎愛莫ければ、洞然として明白なり、
毫釐も差有れば、天地懸に隔たる、
現前を得んと欲せば、順逆を存すること莫かれ、
違順相爭う、是を心病と爲す、
玄旨を識らざれば、徒に念靜に勞す、
大いなる道は難しくない
選り好みをせず
愛することも憎むこともなければ
全てははっきりと明らかになる
だがわずかでも分別をすれば
天と地は遙かに隔たる
真理を実現したければ
賛成や反対の見解を抱いてはならない
一つを嫌い一つを好むことは
心の病だ
物事の本質を理解しないとき
心の平和は徒に乱される
お経として読む分には、上の文章の方がいいように思いますが、意味を理解するには、下の文章の方がわかりやすいですね。プンジャジの本を読んでいると、「ああ、やっぱりそれでよかったのか」と思うことが多々ありました。なかでも、想念と想念を見るようにと言う言葉は、瞑想の際の参考になっています。
この世の真理とは、意外と単純なのかもしれない。
現代人が、鬱病など心の病になやまされるようになったのも、どんどん世の中が複雑になってしまったからかもしれない。「三丁目の夕陽」のころは、今よりも貧しかったが、遙かに幸せだったような気がする。その頃は、母はおかちゃんでちゃんとうちにいて、たえず太陽のように輝いて家のなかを照らしていたし、看護師は、看護婦さんでふくよかな優しさに安心して身を任せることができた。
「24」というアメリカのドラマを見ているときつい目をした女性がたくさん働いている。そして、主人公のジャック・バウアーは24時間走りっぱなしだ。「昔、24時間働けますか」というCMがあったか、まさに彼こそジャパニーズ・ビジネスマンの典型である。
受験勉強という競争がはじまった子供のころから、いつも何かにせっつかれているような、追われているような感覚につきまとわれて、それが世のなかをジャック・バウアー化しているのかもしれない。いつも走っていないと不安で、自分が崩壊してしまうような恐怖を感じているのかもしれない。
しかし、立ち止まって世のなかを冷静に見てみれば、平家物語にもあるように「盛者必衰」「諸行無常」の理を現すように一時的に勝ち誇ったかに見えた人々も皆問題を起こし沈んでゆく、この世はたえず変化して止まないものだということがわかる。
自分の外に在るものを手に入れようとして手はいらないと不満が高まり、絶えず変化しているものを永遠のものとして執着するとそれを失った時にひどい悲しみと苦しみに襲われる。
「単、純、明、解」とは、一つのものに純粋に集中すれば自ずとすべては明らかになるということ。あれも欲しいこれも欲しいという欲望と他者に対する依存と執着から自分自身を解放して、内面を見つめて単純な行為を繰り返し行うことによって、しだいに心が静まり元々あった平安と喜びの世界に帰ることができるということ。
最近、般若心経の本をよく書店でみかけますが、確かに声をだして唱えると効果があります。私も一万回を目指して毎日唱えていますが、現在6500回で唱え始めたきっかけとなった心の傷といったものは、どこかにふっとんでしまいました。気功もまた直接的に心と身体に喜びをもたらせてくれます。安易に薬にたよって、今度は薬に対する依存症になって苦しむよりは、自らの努力で根本的に悩みを克服したほうがいいように思います。
自分自身を信じて内面深く掘り下げてゆけば、永遠に続く喜びと平安という本来の自己に至ことができると思います。
「私は幸せになりたい」という人には、「私は」と「なりたい」を取ってみてくださいという。
確かにそれらを取ると、「幸せ」だけがのこる。でも、意外とそうするのは難しい。
わかっちゃいるけど止められないのが人間だもの。
「青い海」の気功を教えていて、宇宙のエネルギーを巻き込むという最後の方の動きで、
小指から巻き込む指を中指で眉間のチャクラ(慧中)に当てたら、これがたいへん
すばらしい。ちょうど甘露が眉間から流れ込むような形になり、頭の中心が温かな
お湯で溶かされてゆくようだ。その温かさはそのままハートのかなにまで達し、
ハートも溶かすと足に向けて流れ落ちてゆく。思考が止まり全身喜びのなかに
溶けてゆく。とても幸せな気分になる。
気功とは、具体的に人を幸せに導くための技術なのだ。別に外に喜びを求める
必要もなく、今すぐにあなた自身の気の力で幸せなることができる。
知的障害のある息子の食事している所をyoutubuにアップしている。ほとんどの人は、好意的な優しいコメントとしてくれるのだが、中には不躾で悪意のあるマイナスのコメントをする人がいる。箸の持ち方が変だとか、茶碗の持ち方がおかしいから、直せとか。しかし、世の中、絶対ということはない、すべてが相対的な世界にあって、自分だけが正しいと信じ、人を批判することこそ、「変」なのだ。だいたい人といのは、皆少しずつ変わっていて、「変」なのだ。でなければ、まるでロボットかサイボーグのようではないか。
まったく同じ人間ばかりだったら、それこそきもちが悪い。それぞれ違って、個性があるから面白いとも言える。特に障害のある人やその家族に対して、そういう言葉を発するのは、慎むべきだ。だれだって好きで障害を持って生まれてきた訳ではない。しかも、自分がいつそうした障害を持ってしまうかはだれにもわからない。どんなに若い時は、優秀であったとしても、年を取って認知症が入れば、思わぬ事故を起こし、最後は、刑務所で終わってしまうといこともある。
「変」の上の部分を変えれば、「愛」になる。だから、障害のある人を見るときは、上から目線で「変だ」と思うのではなく「愛」持って見守ってほしいと思う。なぜなら、それはちょと先の自分や家族の姿なのかもしれないからだ。
普段、気功教室で教えているヨガの動画を作りました。気功ヨガを呼んでいますが、ポイントは3つあります。第一に脳の中心にある間脳(自律神経とホルモンの中枢)に刺激を入れて活性化すること。 第二に脊髄を左右前後に動かすことで刺激をいれて、柔らかで強い背骨をつくること。第三に仙骨と腸骨の間にある仙腸関節に刺激を入れて、骨盤周りを柔らかく保つこと。この三つのポイントに焦点をあててヨガを組み立てています。
この動画を見ながら一緒に身体を動かし、いつまでも健康で元気でいられるよに努めてはいかがでしょうか。やはりある程度若いうちから始めた方がいいかもしれません。いつまでも柔らかい背骨を保つことが、若さと健康の秘訣だと思います。特に一日中パソコンを見つめている仕事をなさっている方は、股関節がからまり猫背になり首肩が凝ってくると思いますので、ぜひ、試してみてください。
一時期サウナが流行りましたが、別に特別な所へ行かずとも、自宅で横になって、この気功ヨガをしていただければ、心と身体が整って、次第に深い瞑想状態へと入って行くこともできるようになるでしょう。余裕があったら、この後に「青い海の気功」をやっていただければ、ますます深い意識の大海へと溶け込んで行くことができるでしょう。
94才でYOUTUBUをやっているお袋さんに初めて気功を教えてみました。以前、兄貴と組んでバレーの動画をアップしたことがあるので、そちらで見たことのある人もいるかもしれません。BSテレ朝の草の仁さんが司会をしている健康番組にも出たことがあるのでご存知の方もいるでしょう。
一緒に動いてみると意外と大変そうでした。気功は、腰を落として踵に重心を載せた動きが多いので、足腰にに効いてしまうのかもしれません。そう思うと若いうちから来て、継続して練習していることがいかに大切かということがわかります。動画ではありますが、健康になりたい方は、ぜひ、一緒に動いてみてください。
まだ「青い海」の気功そのものを教えていないので、これからも動画をアップしてゆきますので、よろしくお願いします。
今年の夏も豆腐大根ミックスサラダダイエットに挑戦しました。結果は、3キロ減量に成功し、満足しています。今まで、スエットスーツを着て走ったり、いろいろと試しましたが、この方法が一番簡単で確実に効果がでます。皆さんに伝えてぜひ試してもらいたいと思っているのですが、意外を受け入れられていません。
7,8,9月の夏の暑い間、一日のうち一食を豆腐大根サラダを食べるだけの簡単なものです。大根の消化酵素が効くのではないかと思いますが、意外と腹持ちがよく気がわき上がりさわやかな感じで続けることができます。夜寝ていて暑いので、自然と汗をかくのもいいのだと思います。初めてこの方法を試した時には、5キロの減量に成功して驚いたものでした。今年は、3キロですが、お腹周りの脂肪が増えて太鼓腹突入かとマジになって焦って頑張った結果成果がでました。
とにかく脂肪爆発の傾向を止めることが大事かと思います。今では、お腹周りもすっきりして毎日快適に過ごしています。これから寒くなるので、体重が増えないよう気をつけてきたいと思っています。
簡単で効果的な方法なので、ぜひ、皆さんに試していただきたいと思います。
一昨日、長い間、往診マッサージに通っていた患者さんが、亡くなりお葬式に行ってきました。その方は、10年ぐらい前のお正月に階段から足を踏み外し、頸椎を損傷してしまいました。それでも奇跡的に一時は回復し、歩けるようにまでなったのですが、コロナが流行りまた寝たきりの生活になり、だんだん衰えていきました。
なかなか気さくな方で、マッサージをしながら話すのが、楽しい方でした。家族や施設の人たちにも愛されていたのではないかと思います。先週の水曜日にマッサージに伺いその翌々日に亡くなられたということです。最後まで、施術を受けて頂きありがたいことだと思います。
往診マッサージは、治療院から16キロ以内であまり遠くまでは行けませんが、こうして縁のある方がいれば、ぜひ、施術させていただきたいと思いますので、気楽にご連絡ください。
「青い海」の気功の紹介動画を作りました。簡単でだれにでもすぐに出来る気功なので、ぜひ、試してみてください!動きながらクジラになって、青い海を泳いでいき、しだいに意識の大海に溶けて心と身体が解放されてゆく気功です。とても気持ちがよく、体も楽になってゆくので、お勧めです。
太極拳とかも随分ながく教えたり学んだりしてきましたが、形が難しく覚えるのに大変な時間がかかります。そのためになかなか気感を得るのが難しいですが、この気功なら動きが優しいので、すぐに気を感じることができるようになると思います。
優しい動きとクジラになって海の中を泳ぐイメージで、生命エネルギーの流れになって、意識の大海へと溶けてゆきます。身体も次第に緩んでくるので、全身に気が巡り身体が温かくなり、心地よくなってゆきます。最後は、湖に映る満月が光りと化し、水見全体に広がって自分たちもその光の中に溶けて消えてゆくイメージで終わります。本当に気持ちが良いので、ぜひ、一緒に動いてみてください。
今日も朝から般若心経を唱えながら瞑想した。するとこんな言葉が降りてきた「すべては流れ来たり流れ去るものなり」。人や物あらゆる物が、一時的に自分の所に来るが、それらは時間の経過と共にやがては流れ去って、消えていってしまう。「無い物をあると錯覚して、それに執着することで苦しみが生まれる」。最近、年をとるに従って、昔出会った人たちとの関係も消えてきてしまった。特に東京など遠くにいる友達との関係が消え去ってゆく。おそらくもう二度と会うこともないだろうし、それを懐かしむ自分自身が消えてゆきつつなるのだから、それも自然の流れなのだろう。
すべてが流れ去ってしまっても、最後に残る物があるとすれば、それが本当の自分だ。あるいは、それも流れ去ったゆくのか。「吸う」「吐く」「吸う」「吐く」、呼吸だけが残ってゆく。しだいに深い意識に落ちながら。こうして深く自分の内面に入るのは、久しぶりの気がする。これからは、外の出来事、意識の海の海面にある波の動きにその焦点を合わせること無く、深く海底にある充足と喜びに帰ることを忘れずに行こうと思う。
大切な家族に対する指圧法をより具体的に解説してみました。指圧する時は、その体勢が非常に重要なので、施術者の姿勢が映るようにしてみました。普段着で指圧したので、色が濃くていまいちはっきりしない所もあります。次回撮影する時は、できるだけ白い物を着て施術してみたいと思います。コントラストがあった方が、腕の動かし方もよくわかると思うので。
ただ、皆さんが家族を指圧なさる時は、普段着なので、そうした時の参考になったのではないかと思います。太極拳を練習した時も、あまり道着に着替えると言うことはありませんでした。武術を使う時は、普段着で使う訳ですから、その方が理にかなっているのかなと思ってました。同じように家族に指圧をする時は、改まって行うものではなく、日常生活の延長線上で行う訳ですから、普段着の方がいいのかもしれません。
気功指圧の要点は、押すのではなく、うまく体重を乗せてゆき、相手の筋肉が緊張することのない、自然な圧をくわてゆくことにあります。そうすることで天地の気が自然に相手に流れ込んでゆきます。あくまでも相手の中心線にある中脈を開き、そこから気がわき上がるようにして、自然治癒力が働くように導きます。
先週の土曜日の午後5時からBS朝日の「からだ若返りTV」でうちのお袋さんが放映されました。今日の5時までTVerで見られます。その時に指圧のシーンも撮影していったのですが、実際の放送では完全にカットされていました。テレビ局の方針が、西洋医学偏重でカットされたのかどうかわかりませんが、毎晩の指圧が彼女の健康と長寿に貢献していることは確かな事だと思います。機械でも動物、人でも、それを動かしているのは、エネルギーである電気や気ですから、その一番根本の所を無視してはなりたたないはずです。
そこでさっそく自分で「大切な家族を指圧する方法」を動画にしてアップしました。これを見れば、母親や父親など大切な家族を指圧するだいたい手順が分かると思います。ポイントは、指先に力を入れるのでは無く、手の平で包み込むように腕や身体を押さえてゆくということです。指先に力を入れてもまれると、ただ痛いだけですが、こうして手の平全体で押さえると柔らかな気持ちの良い圧がかかります。そして、手の平の中心から気が相手に流れ込んでゆきます。
命とは、水のように絶え間なく流れる生命エネルギーである気の流れです。それを肉体と錯覚して、そこへ執着してゆくのは、ただただ苦しみが増すばかりです。なぜなら、物質である肉体は、いつ消えて亡くなってしまうかわかないものだからです。この間の地震のように突然訪れるかもしれないし、100年以上生きた最後に訪れるかもしれません。いずれにしても波のように変化し、やがては消えてしまうものをすべてと思い込んで、その示す数値に一喜一憂するのは、間違っていると思います。むしろ、肉体を超えた死んでも死なない命を求めて生きるのが得策ではないでしょうか。
うちの玄関の真ん前の木で、今年もキジバトが子育てを始めました。今年で3年目になりますが、その巣が手を伸ばせば届きそうな高さにあるためか、いつも巣立ちの前にカラスか猫に襲われてしまい、まだ一羽も巣立ったことがありません。しかし、キジバトの親は、まるで何事もなかったかのように次の年の春になるとまた同じ場所で子育てを始めるのです。今年も雛がまた襲われて、巣立てないかもしれないなどということはまるで考えていないかのように。
人間だったら、子供を失ったら、とてもではないですが、また、同じ場所で同じように子育てをするということはできないのではないでしょうか。心が張り裂けるように苦しくて、回復するまでにはかなりの時間がかかるのではないかと思います。また、思考力がありますから、外的に襲われないような違う場所を選んで子育てするでしょう。場合によっては、相手も変えているかもしれません。
毎年のことですが、いつもキジバトのたくましさには驚かされます。今年も川で遊んでいた女の子が、三人も亡くなるという痛ましい事故がありました。考えてみれば、自分自身でさえいつどうなるかはわかりません。般若心経は、深い瞑想状態に入った時に、一切が空で実態がないということを悟って、すべての苦しみや災厄から解放されたと言っています。普段から、こうしたものを唱えて、いつどうなっても大丈夫な自分自身を作っておくことが大切なのではないでしょうか。