加齢とともに失われていくものは多いですが、歳を取っても増えるものがあります。それは、「気」です。生命エネルギーである「気」だけは歳を取っても増やすことができます。最近は、寝ていると気が身体中に充満して熱くてたいへんです。未だに夏掛けがじゃいと眠れません。冷え性の人とか、ぜひ、この気功を試してみて、毎日続けてみてください!
できれば、直接習った方がいいと思いますので、ぜひ、一度薬師堂をお訪ねください。お待ちしております。一緒に気功教室で気功をしましょう!
ライブ配信で遠隔で気を送った所、けっこうの人が感じることができたようです。なかには一日中からだがぽかぽかしてましたという人もいました。気に対する感受性は、人ぞれぞれなので、受ける感覚、効果は、人によって違っているとは思いますが、こうして全国の皆さんと気で繋がることができて感激です。ほんとうはgoogle meetsで相手の顔を見ながら送りたいのですが。興味のある方はご連絡ください!
外で気功を行うととても気持ちがいいものです。最近は、ライブ配信でもよく行っています。群馬県内あるいは他県からでも来て頂いて、一緒に気功を行いませんか。とても気持ちよく癒されていきます。ぜひ、薬師堂気功指圧センターにご連絡ください!
ちょっと治療とは離れますが、皆さんの家の庭に巨木化しつつある木はないでしょうか。どうやったら切れるのかとずっと思い悩んでいましたが、ハシゴとRYOBIの電動チェーンソウで切ることができました。これ以上でかくなってしまったら、個人で処理することができなくなってしまうので、ぎりぎりの所で伐採することができました。何かの参考になれば思いアップしました。
95歳のお袋さんをモデルに気功指圧の解説をします。気を入れながらの指圧なので受けている方はとても気持ちがいいです。ぜひ、皆さんも実際に受けてその気持ち良さを体験してみてください!
不眠で悩む人は多いと思います。この気功は、意識を解放して、自由と安心を得て、深い眠りに入るためのものです。意識には、焦点があり、その焦点を宇宙に向って移動し帰ってくることで、だんだんと深い眠りに入っていきます。だれでも簡単にすぐにできますから、ぜひ試してみてください!
google meetsを使って、青い海の気功を配信で全国の人に教えようと思います。この気功を習ってみたいが、遠くて無理だったという人は、ぜひ参加してみてください!とりあえずyoutubuのjin kamiのチャネルでメンバー登録していただくとありがたいです。内側から気エネルギーがわき上がり、心も癒されて健康になることができます。群馬県内にお住まいの方は、気功指圧もしていますので、ぜひ、お気軽に薬師堂にいらしてください。直接、気功教室に参加いただければ、それが一番いいことでうので。
年齢と共に膝が曲がらなくなってしまったりといろいろなことがありますが、気功は、比較的簡単な動きなので、どなたでも動けると思います。うちの95歳の母もやったことがあります。
ぜひ、お気軽にご参加ください!
インドのハグする女性聖者アンマの話で、一番すきなのが、このskyeagleとchikineagleの話です。前からどこにあったのか探していて、やっと昨日、「目覚めよ子供たち7」にあるのを見付けました。面白いためになる話なので、以下に引用してみます。
以下引用
それと同じように、アンマと一緒にいるところでは、アンマが見る、アンマが触る、アンマが話す、アンマが何かをする、そのすべてを通して、私たちは不滅の甘露を味わうのだ。それを味わうことで、そこに私たちの本来の姿であるアートマンがあることを、察知するのだ。そして、今のいままで喜びとして味わってきたものは、この酔いしれる至福の喜びに較べれば、まったく他愛ないものであったことに気がつく。自分たちはただの身体、有限でちっぽけな自己ではなく、全能で無限なアートマン(真我)つまり神であるという知識に、初めて巡り会うのだ。アンマが言うように、「私たちは、弱い子羊ではなく、王者のライオンだということを覚るためにやって来たのだ」。アンマはこのことを分かり易く話している。
「あるときニワトリがヒナをかえそうと、卵を抱いて座っていると、その中にどうしたことかワシの卵が一つ混じっていた。ニワトリはそのことを思い悩みながらも卵を温めていた。しばらくするとすべての卵からヒナがかえった。ワシの子はひよこ達と一緒に育った。ひよこ達と同じように、足で土を掻いたりして虫けら探していた。ワシの子は、本当の自分に気づかず、自分が王者のワシであることをまったく知らなかった。何ヶ月も月日が経って、ひよこは皆立派なニワトリになり、ワシの子も立派なワシになった。しかし、それでもまだワシは、ニワトリ達と生活していて、自分は仲間であると思い込んでいた。深い錯覚にとらわれていて、自分は農家の庭先のニワトリと同じだと思っていたのだ。
ある日たまたま、空高く舞っていた別のワシが、このニワトリ・ワシが土を掘って虫をついばんでいるのを見かけた。空を飛んでいたこの母ワシは、我が目を疑った。そして、このニワトリ・ワシの目を覚まさせて錯覚から救い出そうと心に決め、その機会をうかがっていた。ある日、ニワトリ・ワシが一人きりでいたので、母ワシは空から舞い降りてきてそばまで近寄った。ニワトリ・ワシは、空から降りてきたワシを見るなりとても怖がって、ニワトリのようにコケコッコーと大きな鳴き声を上げた。すぐさま仲間のニワトリがみんな飛び出してきて、ニワトリ・ワシを守ろうとして駆け寄ってきた。結局、空の母ワシは、この日はその使命を果たせずに、飛び去らざるを得なかった。しかし、それから間もないある日のこと、ニワトリ・ワシが、仲間から離れて一人でいたので、母ワシはもう一度近づくチャンスができた。今度はゆっくりと慎重にニワトリ・ワシに近づき、少し離れた所から、自分は味方だから恐がらないでいい、とても大切なことを話したいのだ、と伝えることができた。そして、ニワトリワシに、あなたはただの農家のニワトリではなく自分と同じように、空高く舞い上がることができる王者のワシなのだと、説明した、母ワシはこう言ったのだ。
「あなたは地上にいるべきではないのよ。広く果てしない大空が、あなたの本当のすみかなのよ。私についていらっしゃい、空高くとぶ喜びを、味わってごらんなさい。あなたにもできるのよ。私とまったく同じで。同じ力を持っているのだから。さあ、試してみなさい!」
こうして母ワシは、ニワトリ・ワシを説得しようとした。はじめのうちニワトリ・ワシは、まったく信じようとしなかった。これは何かの悪だくみかもしれないとすら思っていた。でも、母ワシの決意は固く、あきらめなかった。忍耐強く、徐々にニワトリ・ワシの信頼を深めるようになった。そしてニワトリ・ワシに、近くの湖までついて来るように頼んだ。ニワトリ・ワシは母ワシを信用し始めていたので、信頼して湖までついて行った。ともに水辺に立つと母ワシはこう言った。
「ほら、水面を見てごらん、水に映った自分の姿を覗いて、私たちがそっくりなことを見てごらんよ。」
ニワトリ・ワシは、鏡のように澄んだ水面を覗き込んだ。何度も何度も見直してみたが、自分の目が信じられなかった。自分自身を何かに映して本当の姿を見たのは、生まれて初めてのことだった。そして今、自分が実はニワトリとは似ても似つかぬ姿で、母ワシとそっくりであることを知ったのだ。この体験の後、ニワトリ・ワシは母ワシに、深い信頼を寄せるようになった。自分に大きな自信がつき、母ワシが支持することすべてに無条件に従うようになった。はじめのうちはニワトリ・ワシは、地面からとびたつことが難しかったけれども、間もなく二羽のワシが一緒に空を舞いながら、堂々と優美に天に舞い上がっていくのが、見られるようになった。
アンマは言う。
「ほとんどの人が、ニワトリ・ワシのように本当のすみかを知らずに、無知の中で人生が過ぎてゆくのよ」アンマは、思い出させようとして言う。
「子供達、あなたたちは、全能の真我なのよ。全宇宙が、あなたちのものなのよ。あなたたちは宇宙の支配者で、いや、それどころかあなた達は、宇宙そのものなのよ。自分を非力で限られた存在だと思わないで!」
以上引用終わり
この話は、自分達が本当は何者なのかということを分かり易く説いてくれている。この辺では、ほとんど鷲を見ることができないので、skyhawkと鷹に置き換えても問題ないだろう。大空を舞う鷹の雄姿は、素晴らしくあこがれを抱かずにはいられない。恐れを取り除き、大空に羽ばたくことができれば、心と身体から解放されて、最高の意識の状態に帰ることができるだろう。
昨日は、風の川について書いたが、アンマの文章のなかに川と言う言葉を見つけてので再び引用してみよう。
質問:若い頃アンマは、多くの苦難に遭わなければなりませんでした。それについて何かおっしゃりたいことがありますか。
アンマ:アンマにとって重要なこととは思えませんでした。この世の本質がわかっていましたから。ー中略ー
不平や悲しみは、自分が肉体そのものだと思う時に起こります。真の自己の世界では悲しみはありません。アンマが真の自己について熟考した時、アンマは流れのない池ではなく自由に流れる川であるということが明確になりました。
健康な人も病気の人もたくさんの人が川に来ます。水を飲む者、体を洗う者、洗濯する者、つばをはく者さえいます。川にとっては、どのように扱われようが重要ではありませんん。ただ、流れるだけです。川の水が礼拝に使われようが、入浴に使われようが、決して文句を言いません。川はただ流れ、中に入ると世話し、清浄にします。しかし、池の水は、流れず、清潔ではありませんし、においを避けられません。
このことを悟ると、苦難も、受けた愛も、一切影響がなくなりました。なにひとつ重要とは見えませんでした。悲しみは、「私という存在はこの肉体である」と思う時に起こります。真の自己の世界には、悲しみはありません。だれもアンマとは別々ではありませんでした。彼らはこの木に泥を投げましたが、アンマにとってそれは肥料に代わりました。すべてのことは、究極的に役立つためにありました。
美空ひばりの歌ではないが、自分を川の流れと思い流れ去ってゆけば、なんの問題もないようだ。池のように小さな肉体を自分だと思った時に、悲しみや苦しみにみまわれてしまう。つまり、自分はエネルギーの流れと意識すれば、実に自由で解放されてゆく。
肉体に固執することが、あらゆる困難の元にあるようだ。しばらく前までは、日本は平均寿命が世界一だとよろこんでいたが、今ではそれが重荷になって、国の将来が見えにくくなってしまった。ただ、肉体を一日でも長く生かそうとすることが、人々の精神を重くしている。永遠に流れ続ける川のようだと思いを変えれば、すいぶん楽に生きることができるようになるのではないだろうか。「青い海」の気功のように川のように海のようにゆったりとした意識の世界に自分を解き放つことが大切だ。
この文章は、最近でた「霊性の哲学」という本に収められています。以下に上げたamazonの本とは、別です。この本が欲しい方は、直接、http://cart02.lolipop.jp/LA02181118/ にお問い合わせください。
具体的にどうすれば、セロトニンをだして気持ちを落ち着かせて、憂鬱な気分から解放されることができるかということを、「青い海」の気功から見ていこう。
気功教室では、まず、身体を左右に揺すりながら、足首から手首まで、下から順に間接をゆるめて行きます。なぜなら、関節が関所のようになって気の流れが滞るからです。これだけで、けっこう身体が温かくなります。その後に続けて、身体中をさすりながら、マッサージして行きます。最後に前屈しての左右の捻り、真横に曲げて左右の脇伸ばし、そして、前屈にしての前後の伸展をして伸びをして、両手を合わせおへそにおき、目を閉じて軽く瞑想して納めます。
次に横になってヨガを行います。ここからがセロトニンを出すポイントです。気功の場合は、立ちっぱなしの動作が多いので、横になるだけでほっと救われた気持ちになります。
ヨガは、脳と脊髄の流れを意識しながら行います。具体的には、背骨に息を通すつもりで一つ一つの動作を行います。
1,まずはじめに右足を左の膝の上に乗せて、息を吐きながら、身体を左に捻り、顔は右を見ます。次に反対の足で行います。捻っている時は、脇ばらに意識を置き、そこから息を吸ったり、吐いたりします。
(シャバアーサナで両手、両足を広げて休む)
セロトニンとは、どんな働きをしているのか、インターネットで調べると、喜び、興奮したときには、ドーパミンが出て、不快や怒りを覚えるとノルドレナリンがでるという。そんな怒りや興奮を静め落ち着きを取り戻してくれるのが、「セロトニン」の役割だといいます。セロトニンが分泌されると、ノルアドレナリンの量を減らす働きがあり怒りや不快感を抑え、ほっとした感覚を与えるようです。また、出過ぎたドーパミンも減らす働きがあるために興奮して強まった快感を抑えて、もう十分という満足感を与えてくれるそうです。
そのためにセロトニンが、不足すると、不安や恐怖を感じやすくなり、うつやパニック障害や摂食障害を起こし易くなると言われています。
セロトニンは、90%が小腸にあり、わずか2%が中枢神経系に存在し、精神活動に大きく影響していると言います。そして、延髄のほう線核というところでつくられているようです。神経終末に放出されたセロトニンは、再び、8割が再吸収されてリサイクルされてるそうです。そのリサイクルがストレスや悩みによってストレス物質である糖質コルチコイドが増えて、セロトニンの再吸収口を塞ぎ、再吸収を妨害することによって、リサイクルできなくなるゆです。そして、ついには再取り込み口自体も消滅してしまうようです。このために慢性的なセロトニン不足を起こすと書いてあります。
では、どうやって「青い海」の気功では、その働きを回復することができるのか、次回はそのことについて書いて見たいと思います。
朝、太陽に向かって瞑想しているととても気持ちがいい。眉間からその光とエネルギーを吸収し、脳の中心部にある間脳のあたり、アジナチャクラに蓄える。全身が溶けて、エネルギーが下からマグマのように吹き上がるような感覚もでてくる。
考えてみれば、すべてが太陽から始まっているのだから、当たり前のことなだろう。太陽が存在しなければ、一秒たりとも人類は存在することはできない。太陽こそ神であるすべての始まりだということを、あまりに毎日当たり前に見ているので忘れたしまっているような気がする。地球が温暖化すると言っても太陽そのものが熱を失ってくれば、逆に地球は寒冷化し、再び氷河期が訪れる。地球の状態は、太陽との相関関係の上に成り立っていて、人類の与える影響などは、実は、微々たるもののような気がする。
今朝、読んだHPにセロトニンは、朝太陽の光をあびている時につくられると書いてあった。セロトニンには、さまざまな働きがあるようだが、脳内の不快な物質の分泌を抑える働きがあるので、抑うつ的な気分をあらためる働きがあるという。
要するに気持ちが良くなり気分が爽快にある物質ということだろうか。
朝バナナを食べることも、玄米や納豆をたべることもセロトニンをつくるのにいいそうだ。
また、歩行、咀嚼、呼吸などのリズム運動がいいと書いてありましたが、これなどまさに太極拳と「青い海」の気功に含まれるものです。
そう思うと、まさに薬師堂には、セロトニンを増やして、爽快で元気に満ちた生活を取り戻すすべてが、そろっているよに思います。ぜひ、みなさんにもその喜びを味わっていただきたいと思います。
「青い海」の気功は、動きながら次第にイメージのなかで意識の海にとけ込んで行くが、それと同じよう表現を聖者の言葉のなかに見出すことがある。真我は、我々の生命の故郷である海にたとえることができるということだろう。
やはり、ガンガジの言葉の中にも海の表現を見出すことができる。
「人はみな誰も、自己の真の姿である意識の海の中を、裸になって泳ぐことができます。真の自己とあなたという自我は違います。本当の自己とは、あなたの知性、肉体を内包し、それなしには何ものも存在しえず、同時に無限で、ありがたいことに、あなたが努力せずとも存在します。ありがたい、という意味は、もし、それが存在するためにあなたが必要だとしたら、あなたはそれを確立し、保持し、それが死んでしまわないようにするために、膨大な努力をしなければならないからです。一般的に、人は一度自己の甘い蜜を味わってしまうと、そうやって忙しく努力を始めます。・・・・中略・・・・
あなたの真の姿が、あなたという個々の自我をほんの一瞬でも貫き、個々の自我とは別の存在として、自我の源としての姿を現すことがある、という事実は、あなたの理性を圧倒します。すると理性は大概、忙しく活動を始めます。絶対的な畏怖の念を感じたその瞬間を再現しようとしたり、それを保持し、理解しようとしたり、あるいはそれに献身しよとしたりーつまり何かをしよととするのです。理性は最初から常にここにあるものを「確保」しよとあの手この手をつくし、それが、理解を求める理性の働きを助長させます。そして、ある日、個別の意識には終わりがやってきます。真実のあなたを手に入れるためのどんな努力もするのを止め、常にここに存在する、純粋な意識の甘い蜜の中で、ただじっとしていること。それは、今、あなたが生きている人生において、いつも可能なことなのです。」
以上ガンガジ著「ポケットの中のダイヤモンド」より引用
「青い海」の気功の目指すところは、まさにここにあります。それは、動きの中でしだいに意識の海に溶けて行き、すべてを忘れて浄化し、すべての努力や行為を放棄し、常に存在する純粋な意識の甘い蜜のなかにただじっとしてる状態へと帰って行くことです。ただ、永遠に存在する至福の海の喜びのなかに広がり、たゆたうことにあります。
この段階では、個別の意識に終わりがやってくるというように、これは集団でやる気功です。クジラの声に入った音楽を聴きながらしだいに参加している人たちの意識が一つにとけてエネルギーの場、集団の気場ができてゆきます。つまり、意識だけでなくエネルギーとしてもその場にとけ込んで行きます。うまくとけこんだ時の気持ち良さは格別です。この気功には、あまり鍛えるという要素はなく、どんな初心者でもすぐに参加すっることができます。ただ、思考を止めて、恐怖を手放し、しだいに自分を開き解放しれゆけばいいだけです。普通の人が、普通に覚りに近づける気功だと思います。
機会がありましたら、みなさんも是非、参加しれみてください。人数が集まれば、集まるほど気場が高まり、その効果は大きなものとなって行きます。
いよいよ話は、佳境に入ってきます。
「はじめの出来事は、ちょうど今年の夏も終わるアンマの誕生日の直前のことでした。
その晩アンマは部屋の外に出て、来客と時々お会いするための小屋のそばにいました。そこはジャスミンの茂みがあり、よい香りを放つ花がたくさん咲いていて、地面に落ちていました。落ちている花を見て、アンマは思いました。
「この花は、多分泣いている。自分たちは地面に落ちてしまって、もう神に捧げられることはない、と思って悲しんでいる」
それでアンマは花を幸せにしてあげたいと、その花を拾い始めたのです。・・・・・・
ある人が
「海のために花飾りをつくるのですか。」と尋ねたのです。それを聞くとにわかに4,5人が、アンマに同じことを考えていたと言い出しました。そして、みんなはアンマに海に花を捧げるかどうか尋ねはじめました。
アンマはそれを聞いて、たぶんこれは海がそうアンマに伝えたがっているのかもしれないと思い、針と糸をもって来るように言って、花輪をつくり始
めたのです。やがてアンマは自室に戻ってくると新鮮なまま冷蔵庫にしまっておくようにおっしゃいました。海岸に行く途中に何人かの修行僧にすれ違った時、アンマは彼らに向かって、海に花輪をあげたいのだけれど、それは海が自分で取りに来たらあげるのだとおっしゃっていました。アンマたちが浜辺につくと、アンマはいつものように岩の上に登ってすわり、しばらく瞑想をしていました。その後で私から花輪を受け取り、右手を前にまっすぐ伸ばして花輪をその手に握りしめたまま、、アンマは海に向かってこうおっしゃいました。
「さあ、もし、本当にこの花輪がほしいならば、ここに来て私を包み込み、この手から花輪をもっていきなさい!」
私は微笑みながらも、同時に少しがっかりしていました。海面は、二、三メートルも下にあり、波がそんなに高くなることは絶対にありえない、海が花輪を取りに来るのは不可能だと知っていたからです。
しかし、アンマのその言葉が言い終わるか終わらないかのうちに、急に下の方から巨大な波がせり上がってきてアンマの頭上まで高くあがったか
と思うと、今度は上からもう少しでアンマを押し流してしまうくらいに強い力で打ち寄せていったのです。でもアンマはなぜか流されずに座ったままで、波はアンマの手から花輪をもぎとると、下の海へと戻っていきました。
私は驚愕して、アンマと海のあいだにある愛の深さに、目をみはって言葉もありませんでした。」
海は命の故郷。私たちも背骨のかなの脊髄液という海に、未だに浮いて思考しているのかもしれません。「青い海」の気功で意識の海にとけ込む時、海と私たちは一体化します。でも、アマチのようにその海を動かすことのできる人は、めったにお会いすることができません。
昔、船の上から空き缶をすてる人を見て、不思議に思いました。なぜなら、海も私たちも一体なのだから、それは自分自身の身体の中に空き缶をすてるのと同じことだからです。
さらに引用をつづけます。
「アンマが子供のころ、誰からも、家族からも見放されていたときに、海はアンマの慰めでした。アンマは自分の悲しみ、喜びのすべてを海に語りかけました。海に向かって歌をつくり、神を求める歌を歌っていたのです。
最近まるでアンマは、そのころに戻ったようなところが少しあります。たとえば二ヶ月まえほど前にアメリカ・ツアーからインドにもどってきたころ
から、アンマは毎晩のように海岸に通うようになったのです。アンマのアシュラムは細長い土地にあって、その土地の西側は、洋々たるアラビア海に面していま
す。アンマの部屋から海岸までは、歩いて三分とかかりません。浜辺には、巨大な岩が防波堤として築かれていて、村が海に浸食されるのを防いでいます。
毎晩、アンマは、海面から二メートル以上高いこの岩の壁の上にすわって、二、三時間瞑想に没入するのです。それからバジャンをいくつか唄い、浜辺ぞいにもう、二、三時間歩き、そのあとやっとアシュラムに戻るのです。
・・中略・・・・
わずかのあいだでしたが、アンマは私に浜辺に同行することをお許しになりました。そこで体験したいくつかの出来事を、みなさんにお話したいのです。
それは、海やすべての自然は生きていて、それぞれが意識や感情をもっているアンマが尾おっしゃる言葉を、明らかに証明します。
一度、この真実を悟れば、自然に危害をくわえつづけることはできなくなります。木を切り続け、水を汚し続け、自然から奪い続けることはできなく
なります。そのことに関してアンマは何回かいろいろな警告を発して、私たちが害をなし続ければ、いつの日か母かる大自然は反発して反撃してくるとおっしゃ
いました。そのことについて、お話したいのです。」
ミャンマーでは、サイクロンで、中国では地震でひどい被害がでてしまいました。日本も地震大国ですから、ひ
とごととも思えません。今日もホームレスの男性が、以前、女子大生に放火されたというニュースを聞きました。自然や動物に対してどころか、人間に対しても
危害を加えるようになってしまった最近の若者はどうなってしまうのでしょうか。人間としてなにか大切なものを無くしてしまったとしか言いようがありませ
ん。
そんな時、アンマの素朴で力強い歌声を聞くとほっと救われた気持ちになります。そして、一方で、最近、アンマのところへくる若者の姿が増えているのも事実です。アンマの教えがたくさんの人々に本来もっている人としての優しさを思い出させてくれるではないかと思います。
さらに続けて引用します。
「神を体験することは、この一体感をあらゆる物、あらゆる人の中に体験することです。一人や二人ではなく、ありとあらゆるものと一体になるのです。その幸福はたとえようもないものだと、アンマはおっしゃいます。
海を見ると、私たちはその幸福をかいま見ることができます。海は私たちに広大な本当の姿を思い出させてくれるからです。海はアンマにとって、格別にひかれる相手のようです。それは、海がアンマの本当のお母さんであるかのようです。」
「青い海」の気功をしているとしだいに意識は海の中へと溶けて行きます。その海は、次第に宇宙へと広がり、最後は光そのものへと変化してゆきます。いつしか、自らも光そのものとなり、
光の海で泳ぐのです。二年前にアマチが来日した時にダルシャンをしている会場の2階で、「青い海」の気功を教えさせていただきました。その写真を
見てアマチがにこりと笑ったといいます。きっと、アマチは海に溶けた私たちの意識が、アマチの大きな海のような意識の一部として揺らめいていたのを知って
いたに違いありません。
二年前の夏にインドのアマチのアシュラムに行った。シンガポール経由で、アシュラムに着いたのは、夜中の3時頃だったろうか。とりあえず、部屋に案内されると、ひとりがらんとした部屋で波の音を聞きながら眠りについた。アマチのアシュラムは、アラビア海にめんしていて、海がすぐ近くにあった。
アマチの「人と自然と」という小冊子を読んでいたら、ラクシュミという女性のお弟子さんの「アンマと海」という文章が載っていた。ちょうど「青い海」の気功とも関係があるので、引用してみようと思う。
「皆さんにアンマと海のつながりについてお話したいと思います。
海という言葉を聞くだけで、私たちは広がって大きい感じを想像します。その果てしない美しさを見るとき、心配ごとはすべて忘れられてしまいます。波の音を耳に傾けているだけで、心は静まってきます。
なぜ、みんな海を見るのが好きなのでしょうか?その広大さ、果てしない広がりのためではないでしょうか。そこにはしきいのない、境目のない、ひたすら無限に尽きない美しさがあるからです。
私たち一人一人はみな、心の奥に海があります。至福の海です。それが私たちの本当の姿、つまり、すべてにまねく宿り、境目がなくひとつながりで区別をしらない本当の自分です。
でも、それが本当の姿なのに、私たちはそれを見失ってしまいました。しかし、ひとつながりである感覚こそが、私たちが求め、切望してやまないものなのです。だから知らず知らずのうちに私たちは他者との関わりの中にその一体感を見いだそうとします。
人と人がたがいに深く愛しあうとき、自分のことはすっかりと忘れてしまいます。それはまるで、この一体感を体験したいがために、相手の中にとけ込もうとするかのようです。私たちは、たがいの距離がまったく無ければよいと願います。自分の限られた人格の殻から抜け出て、相手の中で一つになりたいと望みます。こうして一体となることに、私たちは幸福を感じるのです。」
生身の人間のなかにこの一体感を求めることは、一時的には可能だろうが、最終的には残念ながら裏切られることが多いように思う。「今生は、だめだから、また、来世できっとあなとを探し出す」なんて言われても、きっとそういう人は、また、同じことを来る返すにちがいない。
そういう人に対しては「残念まがら、来世はもう生まれてこないので」と断るにこしたことはない。どうせ恋をするなら、けっして裏切ることのない、海のような愛をもつアマチのように純粋な意識に到達した聖者に恋をするにこしたことはない。
「青い海」の気功は、ただ鯨のなきごえが入った海の音楽を聴きながら動くだけで、しだいに意識が溶けて、その広大な海と一体化してゆくことができる。あえてだれかを愛する必要もない、すべてが自然にアマチの意識の元にある海の世界へと溶けて行く、そこではきっとアマチともひとつにつながっているに違いない。
毎日、暑いですね。夜寝ていても疲労が重なり、朝起きるとだるい日が多いです。そんな時は、青い海の気功およびヨガで夏の暑さを吹っ飛ばしまあしょう。REKI WHALE SONGをかけながら、ぜひ、青い海の気功をやってみてください!
般若心経を1万回唱えることで、ついに喪失感から立ち直り、心の傷を自ら癒し復活することができました。そこにいるのは、ただ単に元に戻った自分ではなく、さらに人間的に深まり、心の平安に満たされた自分でした。
般若心経を唱えることで、脳の中心にある間脳が活性化してきます。思考が止まることで、悩みや不安も消えていきます。今でも、毎日のように唱え続けて今では4万回を超えました。普通の人が普通に生きて普通に悟りを目指す時代が来たら、世の中変わるのかもしれませんね。