以前岡山の安泰時で夏の間だけ参禅したことがある。安泰寺は、内山興正老子ゆかりのお寺だ。そのころは、宮浦管長だったが、今では、ドイツ人が管長をしているのをテレビで見たことがある。世の中、変わったものである。この本が書かれた頃の内山老子もまさかドイツ人が管長になるとは、思いも寄らなかったのではないだろうか。
生命の実相から少し引用してみよう。
我々が普段、自分、自分と言っているものは何か。ーそれは他者と出逢い、他者に対するところにのみ、自分というものを浮き彫りにしてくるように思います。たとえば、ここに一人の人がいる場合、彼は妻に対する時「夫」という規定において自分を見出し、我が子に対する時「親」という規定において自分を見出します。会社にゆき上役に対したとき「下役」という規定において自分を見出し、能力の「ある同僚に対しては「無能だ」という規定において自分を見出します。そして、顧客に対しては「売り手」、同業者に対しては「競争相手」、金持ちに対しては「貧乏」、「あんないいもの」に対しては「買えない」、勝者にたいしては「敗者」、社会に対して「無力」等の規定をもった自分を見出すでしょう。ーところでもしかれがこのよな規定においてばかり、自分といういものを意識しているとしたら、これはもう、劣等感によってノイローゼにならないのが不思議だといわなければなりますまい。
中略
ところで、これらすべては裸で生まれ裸で死んでゆく、暫くの中間に着るところの着物でしかないわけですが、ほとんど多くの人たちは、これらの着物ばかりに目を奪われて、これらの着物のうち「どんなよいものを着るか」といういことだけが、生きて行くことの問題のすべてだと思いこんでしまっています。そして、ほんとうの「生命お実物としての自己」「裸の自己」とは何かということんなど、思い出しもしないでいるのじゃないでしょうか。つまり、さきに「他との関係における外的規定」と言ってきたことは、まさしく今ここでいう「着物」であるわけですが、とにかくわれわれは、たしかに今事実、自分を生きていながら、しかし実は「真実の自己の実物」を生きているわけではなく、ただ、「他との関係において外的に規定された自分」あるいは「しばらくの間の着物」だけを問題にし、これだけがすべてだと思いこんでいるのです。
なるほどそうだったのかと得心がいく方も多いかと思いますが、現実は、派手な着物が幅をきかせている世界です。そんななかで真実だけを求めるのもなかなか辛いものがあります。
最近、気功教室で太極拳も教え始めました。そして、気功で培った内的な喜びを華のように外に表現してもらおうと思って、衣装をそろえることにしました。やはり、衣装というと女性の目が輝きます。真実だけでは、なかなか理解してもらえなくても、こうした表現を工夫することによって、より具体的に真実の成果が大勢の人の目に触れて理解されるようになることも大事ではないかと思う今日この頃です。
具体的にどうすれば、セロトニンをだして気持ちを落ち着かせて、憂鬱な気分から解放されることができるかということを、「青い海」の気功から見ていこう。
気功教室では、まず、身体を左右に揺すりながら、足首から手首まで、下から順に間接をゆるめて行きます。なぜなら、関節が関所のようになって気の流れが滞るからです。これだけで、けっこう身体が温かくなります。その後に続けて、身体中をさすりながら、マッサージして行きます。最後に前屈しての左右の捻り、真横に曲げて左右の脇伸ばし、そして、前屈にしての前後の伸展をして伸びをして、両手を合わせおへそにおき、目を閉じて軽く瞑想して納めます。
次に横になってヨガを行います。ここからがセロトニンを出すポイントです。気功の場合は、立ちっぱなしの動作が多いので、横になるだけでほっと救われた気持ちになります。
ヨガは、脳と脊髄の流れを意識しながら行います。具体的には、背骨に息を通すつもりで一つ一つの動作を行います。
1,まずはじめに右足を左の膝の上に乗せて、息を吐きながら、身体を左に捻り、顔は右を見ます。次に反対の足で行います。捻っている時は、脇ばらに意識を置き、そこから息を吸ったり、吐いたりします。
(シャバアーサナで両手、両足を広げて休む)
今日も太陽が眩しい。太陽に向かって目を閉じ、眉間からその光を吸収して会陰に降ろし、また、太陽に戻し、再び眉間から光りを吸収することを繰り返す。太陽のエネルギーが全身に満ちあふれ、喜びが身体と心を溶かして行く。もし、今、あなたが憂鬱な気分や不安に襲われていたなら、まず、太陽を見ることから始めてみてはいかがでしょうか。
毎年、この気節になると太陽が治療室の壁に光りの像を創り出してくれる。それは、不思議な光のショウだ。あるときは、おさなごを抱いたマリアのように見えるし、まるで何かの意思があって語りかけているようだ。
薬師堂は、光とともにあなたが疲れた身体と心を癒すことができるようにお待ちしています。あなたが、あなたとして存在することそのものの喜びを取り戻すために。
セロトニンとは、どんな働きをしているのか、インターネットで調べると、喜び、興奮したときには、ドーパミンが出て、不快や怒りを覚えるとノルドレナリンがでるという。そんな怒りや興奮を静め落ち着きを取り戻してくれるのが、「セロトニン」の役割だといいます。セロトニンが分泌されると、ノルアドレナリンの量を減らす働きがあり怒りや不快感を抑え、ほっとした感覚を与えるようです。また、出過ぎたドーパミンも減らす働きがあるために興奮して強まった快感を抑えて、もう十分という満足感を与えてくれるそうです。
そのためにセロトニンが、不足すると、不安や恐怖を感じやすくなり、うつやパニック障害や摂食障害を起こし易くなると言われています。
セロトニンは、90%が小腸にあり、わずか2%が中枢神経系に存在し、精神活動に大きく影響していると言います。そして、延髄のほう線核というところでつくられているようです。神経終末に放出されたセロトニンは、再び、8割が再吸収されてリサイクルされてるそうです。そのリサイクルがストレスや悩みによってストレス物質である糖質コルチコイドが増えて、セロトニンの再吸収口を塞ぎ、再吸収を妨害することによって、リサイクルできなくなるゆです。そして、ついには再取り込み口自体も消滅してしまうようです。このために慢性的なセロトニン不足を起こすと書いてあります。
では、どうやって「青い海」の気功では、その働きを回復することができるのか、次回はそのことについて書いて見たいと思います。
朝、太陽に向かって瞑想しているととても気持ちがいい。眉間からその光とエネルギーを吸収し、脳の中心部にある間脳のあたり、アジナチャクラに蓄える。全身が溶けて、エネルギーが下からマグマのように吹き上がるような感覚もでてくる。
考えてみれば、すべてが太陽から始まっているのだから、当たり前のことなだろう。太陽が存在しなければ、一秒たりとも人類は存在することはできない。太陽こそ神であるすべての始まりだということを、あまりに毎日当たり前に見ているので忘れたしまっているような気がする。地球が温暖化すると言っても太陽そのものが熱を失ってくれば、逆に地球は寒冷化し、再び氷河期が訪れる。地球の状態は、太陽との相関関係の上に成り立っていて、人類の与える影響などは、実は、微々たるもののような気がする。
今朝、読んだHPにセロトニンは、朝太陽の光をあびている時につくられると書いてあった。セロトニンには、さまざまな働きがあるようだが、脳内の不快な物質の分泌を抑える働きがあるので、抑うつ的な気分をあらためる働きがあるという。
要するに気持ちが良くなり気分が爽快にある物質ということだろうか。
朝バナナを食べることも、玄米や納豆をたべることもセロトニンをつくるのにいいそうだ。
また、歩行、咀嚼、呼吸などのリズム運動がいいと書いてありましたが、これなどまさに太極拳と「青い海」の気功に含まれるものです。
そう思うと、まさに薬師堂には、セロトニンを増やして、爽快で元気に満ちた生活を取り戻すすべてが、そろっているよに思います。ぜひ、みなさんにもその喜びを味わっていただきたいと思います。
拈華微笑(ねんげみしょう)とは、あまり聞き慣れない言葉だが、インターネットで調べたらおおよそ以下のようなことであるらしい。
お釈迦様が、涅槃の時に聴衆の一人が睡蓮を捧げたところ、釈尊は黙ってそれを受け取り、拈って(ひね)って大衆に示したという。ほとんどの人がその意図をがわからなかったが、迦葉尊者だけがそれを理解して微笑んだという。これを拈華微笑(ねんげみしょう)というらしい。そこで釈尊は、「正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門あり。不立文字、教外別伝にしてマカ迦葉に伝わる」といったという。つまり、仏が悟った深遠微妙の法門は、経綸、言辞によらず、ただちに以心伝心をもってまか迦葉に伝わったということらしい。
これが禅宗の起こったはじまりということらしい。そういう意味では、この言葉は非常に重要なようだ。以前にも書いたが、インドではこのことをディクシャというらしい。要するに伝授ということだ。イニシィエイションとかアチューメントとか、そのほかにもいろいろと言い方はあるだろう。だが、言葉にはよろず、その体験を直接、相手に伝えるということは、とても難しい。
今週も、前に気功の後にいっしょに瞑想した生徒さんと話をした。その後、熱を出して寝込んだということだが、おかげで心にしこっていたものがすっかり溶けてでたようで、普通に暮らしていても自然と笑みがこぼれてくるようだと語っていた。
気功や瞑想で感じている自分の内面にある喜びをどうやって、みんなに伝えようかと思っているが、こうして共に瞑想することで直接受け取ってくれる人もいると思うと、実にありがいのものだ。
ここでいう微笑みとは、内面からこぼれ出るような喜びのことではないだろうか。見事な蓮の華は、外にではなく、それぞれの内面に咲いている。
こうした分類には、ほとんど意味がないということは、誰でも知っていることだと思うが、日本のマスコミで最近よく使われていたように思う。アメリカのマネをして、こんな意味のない言葉まで輸入して悩んでいたとしたら、それも戦争に負けてから、心まで負けてしまっていたからか。歴史のある国なのだから、そんなコンプレックスをもつ必要もないと思うが。今回の恐慌前夜のアメリカの状態にぜひとも平家物語のこの言葉を贈りたいと思う。この言葉を授業中にアメリカの子供たちに教えることは、株のもうけ方を教えるよりははるかに意義があることと思う。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もつひには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ
この世は、たえず変化していてとどまるところがない。そうした中で、勝ち組とか負け組とかいう分類の仕方には、なんの意味もないと思う。強いて言えば、最終的には、すべての人が時間のながれに負けて、この世から姿を消して行く。だから、すべての人が、永遠に続く真実をつかまないかぎり、負け組なのだ。
リーマン・ブラザーズの何かを買って一億円の損失を出した日本のどこかの社会福祉団体の話をニュースでしていた。もうけるつもりが、すべてパーになってしまった訳だ。なぜ、社会福祉団体までもが、そんな風にリスクのある投資をしなければならなかったのか。本来なら、そうしたもうけ話から一番遠いところの地味な仕事のはずだがすっかり最近の風潮に巻き込まれてしまったようだ。
アメリカ発の欲望が世界中を駆けめぐり、しかも、破綻しようとしている今、もう一度、自らの内面を見つめ、永遠に変化することのない、確かな平安と喜びを求めて、人生を立て直す必要に迫られている人たちが、たくさんいるのではないだろうか。
こうしたたいへんな時期に精神的に落ち込んでしまった人たちへの薬師堂のお勧めは、
第一に 恥も外聞もなく、偉大なる母に救いを求めよう!
第二に 毎日大きな声を出して、般若心経を唱えよう!
第三に 気功、太極拳を通して、なにものにも依存しない自律した精神状態を獲得しよう!
こうすれば、だいぶ精神的に落ち着きを取り戻すことができます。自分の内にある本来の喜びに気づくことが一番です。
誰しも落ち込んだことや精神的にひどいショクを受けた経験があると思う。そんな時は、みなそれぞれの方法で克服していると思うが、私が回復した方法は、ほとんどお金もかからないし、いつでも時間があれば試すことができるので、ぜひ、お勧めしたい。
その前に、ほとんどの場合は、我々はなにかに依存して生きているということを確認しておきましょう。知ってか知らずか生まれて落ちてきてから死ぬまで、何ものにも依存せずに生きている人はほとんどいないだろう。特に身近な人の喪失は、我々にたいへんな精神的なダメージを与える。そんな時、どうすればそのショクから立ち直ることができるかということが問題です。
私の場合は、そうしたショック状態の時は、アマチというインドの女性の聖者に精神的にすがりつきました。彼女は、いわゆるグレイトマザーといった存在で、私たちすべての人の母として存在してくれています。アマチにとっては、覚る前の私たちの魂すべてが、彼女の子供のようなものなのです。だから、苦しい時は、心のなかでアンマ、アンマと呼び続けるのです。彼女は、私たちの根本である「純粋な意識」の状態に到達しています。ですから、すべてを投げ捨てて、その根源の意識に助けを求める時、私たちの心に愛のエネルギーが注ぎ込まれます。もっとも、疑いの心を捨てて、赤ん坊が母を求め泣くように、ただ、ひたすら彼女の愛を求める必要があります。そうすれば、必ず偉大なる母は私たちに助けを与えてくれるでしょう。
次にやや落ち着いてきたので、「般若心経を一万回唱える」ことを始めました。「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 」という言葉が示すように、この世のすべての現象が、実は実体のない幻のようなものだということを何回も何回もお経を声にだして唱えるうちに身体の細胞一つ一つに染み渡って、やがて苦しみは消えて行きます。理屈ではなく、実践が大切です。はじめのうちは唱えるのも大変かもしれませんが、回数をかさねるうちに自然とその音の中にすべてが溶けて消えて行くようになるでしょう。
そして、3千回を超えたあたりから、だいぶ精神的に安定してきます。このころになると再びまわりのことも見えだし、落ちつて生活できるよになってきます。逆に般若心経を唱えるペースは少し落ちてくるかもしれません。結局、一万回を唱え終わるまでに2年ぐらいかかりました。
今は、太極拳を練習しながら、前回も書いたように自律した精神状態にあります。「己をもって主とす、他になんぞ主あらんや」と言った心境でしょうか。ちょど心のなかでふらふらになってしまったコマが、再び高速で回転しはじめて、安定している状態に似ています。
なにかに依存することで始まったこうした心の危機を、なにか他のものに依存することで、ごまかすというのは、あまりよくないように思います。自分自身の中にこそ、自らを救う方法が隠されています。自分をごまかさずに、困難を克服することをお勧めします。
今、悩んでいる方は、遠慮無くご相談ください。何かいいアドヴァイスができかもしれませんので。
やはり、ガンガジの本に、「理性が沈黙にひれ伏す時」という章がある。こうして文章で表現するということは、結局は、理性を使っていることになるが、それは沈黙へと向かう思考ともいえるかもしれない。
「私たちはおそらく、肉体以上に、理性と自己を同一視しています。「理性」という言葉で私が意味するのは、「私とはこの肉体であり、私はこういう人であると思う。したがって、これが現実である。」という思考のことです。私たちは、思考に、自分が何者であるかを定義する権限を与えます。もし私が、肉体的な感覚・知覚に基づいて、あなたは私とは別の人であると考えた場合、その思考は現実の制定者としての権威を持ちます。
私たちの頭の中で、思考は神であり、同時に悪魔でもあります。良い思考と悪い思考の間には戦いが繰り広げられます。・・・中略・・・・・
しかし、見過ごされやすいのは、あなたの中心にはいつでも、平穏で、途切れることも、揺れ動くこともない意識(awareness)があるということです。あなたという存在の真の姿はすでに平穏であるということをあなたは見過ごしています。勝とか負けるとか、それはあなたの真の姿とは何の関係もありません。・・・・中略・・・・・
刷り込まれた思考による幻惑は深く、複雑ですが、「止める」というシンプルな行為に対して無防備です。あなたがこの、「止める」という一点を自覚するとき、あなたには本当の選択肢があります。このことに気づく前のあなたの思考は、過去のすり込み、欲望、嫌悪に基づいた、単なる機械的な理性の活動でした。・・・・中略・・・・
存在を思考するということは可能でしょうか。この質問は、思考の持つきちんとしたパターンを事実上崩壊させます、そして、思考のもつ巨大な幻想の世界からの落下、解放、救済の引き金となるのです。あなたが「私」と呼ぶもの、平衡保つ、バランスを変える、形は変える、再構築するなどの行為は、みな思考にすぎず、新しい思考が前の思考の上に次々と積み重なるにすぎません。思考することのできないものの存在に気づく瞬間、それは、あなたの真の姿に目覚める瞬間です。それは、理性が静寂にひれ伏す瞬間なのです。」
以上ガンガジ著「ポケットの中のダイヤモンド」より引用
そういえば、以前、転形劇場という劇団で研究生をしていた頃、「水の駅」という劇の制作の現場に立ち会ったことがある。その劇は、舞台の中央に水道の蛇口があり劇の間じゅう一定のリズムの水が流れ落ちていた。そこへ様々な想いをもった登場人物たちが現れ、その水を飲みそれぞれの人生の乾きを癒して消えて行くのである。かれらは、はじめは台詞が与えられていたのだろうが、劇は台詞を消した無言のうちに進むのである。
ただし、彼らは、台詞を消した分、身体からわき上がるエネルギーで様々な想いを表現していった。沈黙ではあるが、台詞がある以上に饒舌な舞台だったが、それは、ドラマでなく人間を存在そのものを表現する舞台だった。面白いことに見終わった後は、まるで神聖な場所に行った後のように浄化された気分になるのだった。
同じく大学の頃、能楽研究会に入って能を習っていたことがる。これもやはり存在の演劇と言えるだろう。そして、人を夢幻の世界に引きずり込む舞台装置といえるだろう。あの舞台の後ろに描かれている松の絵は、鏡板と言われている。すなわち、私たちの潜在意識がそこに映し出される。「そして、思考のもつ巨大な幻想の世界からの落下、解放、救済の引き金となるのです。」 と言われるように劇の最後には、すべて情念を出し終えて浄化された姿となって元の世界へと帰って行くのである。後には、ただ、松風だけが吹いている。松風ばかりやのこりけん。松風ばかりやのこりけんと。
アテネ、北京と4冠を達成した北島康介選手は、すでに北京に入る時から、一抹の寂しさを感じていたという。それは、夢みることを「止めることの難しさと寂しさ」を表しているかもしれない。どんなにいい夢も覚める時がくる。日本人にとっても彼にとっても最高の夢の舞台もそれが達成された瞬間に終わりを迎えようとしている。最終的には、誰もがすべての幻想から離れていつか目覚める運命にあるといえるだろう。
やはり、ガンガジの言葉から「止めることの力」というのを引用してみよう。
「自己探求とは、あなたをどこかへ連れて行ってくれることではありません。それは、あなたをその行程の途中で立ち止まらせ、自分自身で、直接、あなたが誰であるかを発見させてくれる道のことです。
止めることの力を言葉で説明することはできません。止めることができたその瞬間、そこにはどんな概念もなく、けれども意識があります。概念を持たない意識というのは、当然、自由です。それは、一瞬にして自ら明らかになります。私たちは普段、概念に従うことをあまりにも教え込まされているため、意識そのものも概念化しようとします。意識が存在するために概念も必要ないということに気づくその永遠の一瞬、概念と自己の同一視は忘れ去られます。これは必要不可欠な経験です。」
以上ガンガジ著「ポケットの中のダイヤモンド」より引用
幻想から目覚め、夢見ることを止めるというのは、とても難しい。夢から覚めたと思ってもまた、違う夢をみているのに似ている。何度も何度も夢のなかで覚める夢を見て、ついにすべての概念が無くなった時にやっと夢から覚めることができるのだろう。
最近のスピリチャルブームというのもほとんどが現実という夢を精神という夢に置き換えているだけだ。アセンションとかいう言葉も2012年と言う言葉も結局は一つの夢でしかない。そうした夢想をすることを止めるということは、実に難しい。それは、この世がすべて夢想によって突き動かされているせいだろうか。ただ、覚めるといことが、実に簡単でいかに難しいか。それは、概念をこえなければならないのに言葉という概念を使うことでしか伝達することができないという矛盾に由来している。それに対して音楽や気功などの気による交流は、直接的にエネルギーで交流できるので、そうした過ちを犯す可能性が少ないと言えるかもしれない。
「青い海」の気功は、動きながら次第にイメージのなかで意識の海にとけ込んで行くが、それと同じよう表現を聖者の言葉のなかに見出すことがある。真我は、我々の生命の故郷である海にたとえることができるということだろう。
やはり、ガンガジの言葉の中にも海の表現を見出すことができる。
「人はみな誰も、自己の真の姿である意識の海の中を、裸になって泳ぐことができます。真の自己とあなたという自我は違います。本当の自己とは、あなたの知性、肉体を内包し、それなしには何ものも存在しえず、同時に無限で、ありがたいことに、あなたが努力せずとも存在します。ありがたい、という意味は、もし、それが存在するためにあなたが必要だとしたら、あなたはそれを確立し、保持し、それが死んでしまわないようにするために、膨大な努力をしなければならないからです。一般的に、人は一度自己の甘い蜜を味わってしまうと、そうやって忙しく努力を始めます。・・・・中略・・・・
あなたの真の姿が、あなたという個々の自我をほんの一瞬でも貫き、個々の自我とは別の存在として、自我の源としての姿を現すことがある、という事実は、あなたの理性を圧倒します。すると理性は大概、忙しく活動を始めます。絶対的な畏怖の念を感じたその瞬間を再現しようとしたり、それを保持し、理解しようとしたり、あるいはそれに献身しよとしたりーつまり何かをしよととするのです。理性は最初から常にここにあるものを「確保」しよとあの手この手をつくし、それが、理解を求める理性の働きを助長させます。そして、ある日、個別の意識には終わりがやってきます。真実のあなたを手に入れるためのどんな努力もするのを止め、常にここに存在する、純粋な意識の甘い蜜の中で、ただじっとしていること。それは、今、あなたが生きている人生において、いつも可能なことなのです。」
以上ガンガジ著「ポケットの中のダイヤモンド」より引用
「青い海」の気功の目指すところは、まさにここにあります。それは、動きの中でしだいに意識の海に溶けて行き、すべてを忘れて浄化し、すべての努力や行為を放棄し、常に存在する純粋な意識の甘い蜜のなかにただじっとしてる状態へと帰って行くことです。ただ、永遠に存在する至福の海の喜びのなかに広がり、たゆたうことにあります。
この段階では、個別の意識に終わりがやってくるというように、これは集団でやる気功です。クジラの声に入った音楽を聴きながらしだいに参加している人たちの意識が一つにとけてエネルギーの場、集団の気場ができてゆきます。つまり、意識だけでなくエネルギーとしてもその場にとけ込んで行きます。うまくとけこんだ時の気持ち良さは格別です。この気功には、あまり鍛えるという要素はなく、どんな初心者でもすぐに参加すっることができます。ただ、思考を止めて、恐怖を手放し、しだいに自分を開き解放しれゆけばいいだけです。普通の人が、普通に覚りに近づける気功だと思います。
機会がありましたら、みなさんも是非、参加しれみてください。人数が集まれば、集まるほど気場が高まり、その効果は大きなものとなって行きます。
ガンガジの本のなかに「本当のことを言う」という章がある。この間も、ある会であなたの願望を10個まで書いてくださいと言われたが、意外と本当の願望は書けないものだ。本当に心の底から望んでいるものは、そう簡単には人前では語ることはできないだろう。
もう一つは、頭で望んでいることと心で望んでいることがくい違っているということがある。
心と身体と意識に分裂がある社会や個人では、特にその違いに本人が気づくことはむずかしいだろう。本当に必要なこと本当に望んでいることとは何なのか。その問い対して、ガンガジはこんな風に書いている。
「自分を肉体のみと同一視したり、一過性の状態や状況と同一視したりすることが、あなたのすべての苦しみの根本原因です。と同時に、どんな苦しみの体験にも、すぐその後にあなたの真実の姿が隠され、あなたがそれに気づくのを待っているのです。あなたは、眩いばかりの自由な意識です。この輝く自由な意識が、自分を単なる肉体、思考、感情、あるいは状況と同一視することで曇らされるとき、あなたは嘘の人生を生きています。そして、嘘のあるところにはいつも苦しみがあるのです。
私たちの多くは人生を非常に表面的に生きています。そして、その表面的な生き方のために苦しみます。なぜなら、私たち一人一人の内面にあるより深い存在が、私たちがその存在を知り、感じ、表現し、対峙することを望んでいるからです。表面的な真実に満足している限り、悲しいことに、私たちはより深い真実の発見はできないのです。」
以上ガンガジ著「ポケットの中のダイヤモンド」より引用
看板の絵のような表面的な人生をなんの気づきも不満も苦しみもなく送ってしまったら、その死に際して私たちは、なんと無駄な人生を送ってしまったのかと後悔してしまうかもしれない。そういう意味では、苦しみがあるからこそ、本当の人生を求め真実に近づこうと努力すことができるのだろう。
ガンガジの言葉は、シンプルでわかりやすい。その中でこんなことを言っている。
「地球に住むほとんどの人は、何よりも自分の物語を信仰しています。「私の」物語が位置する場所は、自分の身体だったり、部族、国家、宗教といった「私たち」であったりします。地球に戦争が絶えないのも、あなたが自分自身と常に戦っているのもそのせいです。もし、あなたが自分はどんな物語を持っているかに気づくことができたなら、その物語は無意識ではなく意識的なものになります。あたはそれがどんな物語であるかを知り、あたかもそれが現実であるかのようにその物語に従うのを止めることを選べるのです。」
以上ガンガジ著「ポケットの中のダイヤモンド」より引用
考えてみれば、我々は一日中物語を求め物語りの中で生きている。寝ている時でさえ夢の中では、様々な物語が展開している。起きている時は、映画を見、テレビでドラマを見たり、人の噂話に耳をかたむけたり、一日中心も目も頭も休まることがないほどドラマのなかにどっぷりとつかりながら生きている。
そうした物語から解放されることが、真の自由と喜びをもたらしてくれる。そうすれば、この世はさほど苦しみに満ちたものでもなくなり、人類は、欲望をうまくコントロールして、充実した生と死を迎えることができるようになるだろう。
ラマナ・マハリシが「あるがまま」の中で愛の道(バクティ・マールガ)について語っているので引用してみよう。
質問者:スワミ、神を愛することは善いことではないでしょうか。それならばなぜ愛の道(バクティ・マールガ)にしたがわないのでしょうか。
マハリシ:それに従わないと誰が言ったのかね。そうするがいい。だが、あなたが、愛について語る時、そこには二元性がある。愛する者と、神と呼ばれる実体たる愛される者がいる。そうでないだろうか。個人は神から分離してはいない。それゆえ、愛とは自分の真我に対する愛を意味しているのである。
質問者:だからこそ私は、神が愛の道を通して崇拝されていいのかどうか尋ねているのです。
マハリシ:それこそが私が言ってきたことである。愛そのものが神の本当の姿である。「私はこれを愛さない」、「私はあれを愛さない」とすべてを拒絶していくと、拒絶しきれないものが残る。それがスワルーパ、真我の無形態の形態である。それは純粋な至福である。純粋な至福、アートマ、好きなように呼ぶがいい。それが帰依、それが真我の実現、それがすべてである。
あなたがこのようにすべてを拒絶すると、ただ真我だけが残る。それが真実の愛である。その愛の秘密を知った者は、世界が普遍の愛でみちていることを知るだろう。
真我の本姓である愛を知る人にのみ、強くからまった生のもつれは解きほどかれる。愛の高みに達した人にのみ、解脱は成就される。それがすべての宗教の本質である。真我の体験とは愛である。それはただ愛だけを見、愛だけを聞き、愛だけを感じ、愛だけを味わい、愛だけをかぐ。それが至福である。
ラナマ・マハリシが愛について語るとは思わなかった。しかし、その言葉は、実に端的で美しくもある。真我の体験とは「愛」であるという。それはだれかを愛するという愛ではなく、愛そのもの、至福に中に居る時にすべたが愛として体験されるということだろう。
そして、「私」という分離した意識が消えた時、すべてが純粋な意識、普遍の愛によって満たされていることを知るという。インドのアマチのアシュラムに行った時に感じたのだが。彼女はすでに肉体を超えた巨大なエネルギー場のようだった。そして、その存在は、普遍の愛という形で世界中に広がって存在している。もし、あなたに感じるとる力があるなら、その愛をすぐにも感じ取ることができるだろう。
さらに続けて要約して引用してみよう。
質問者:人の人生における顕著なできごとが、カルマによってすでに決定しているのはわかりますが、人生の取るに足らない些細なことにいたるまで決定されているのでしょうか。
マハリシ:もちろんだ。なんであれ、この身体がすること、そして、何であれそれが通り抜ける体験は、その身体が存在を現した時にすでに決定されているのである。
質問者:それでは、人の自由や彼の行為にたいする責任はどうなるのでしょうか。
マハリシ:人が手にできる唯一の自由とは、努力をしてジュニャーニを得ることである。それが彼と身体との同一化を断ち切る。身体はプラーラプダによって宿命づけられた、避けることのできない行為を通り抜けて行くだろう。人は身体と彼自身を同一視し、その身体の報いに執着するか、あるいはそれから離れ、身体の活動の単なる目撃者となるか、という選択の自由だけをもっている。
この世の人生は、舞台の上の人生と同じようにすでに脚本があり、決定しているという。ただし、舞台で演じているのとは違い、身体を通して実際に体験すると喜びも悲しみ苦しみも非常に強く感じる。能の世界では、「離見の見」と言って、ある役を演じつつも外側からその演じている自分を見ているということが大切と言われている。実際の人生においても、ざまざまな出来事に対して、巻き込まれることなく冷静に外側から自分を見つめる目が必要だろう。そうすれば、苦しみや悲しみに落ち込むことなく、正しい選択を通じて、永遠の喜びの中にとけ込む選択をすることができるよになるだろう。
自由意志について、また、「あるがまま」から引用してみうう。
質問者:現在の状態は、過去のカルマによると言われています。私たちは、今、自由意志によって過去のカルマを超えることができるのでしょうか。
マハリシ:現在とは、なんなのか、それを見てみなさい。もし、そうするなら、何が過去や未来をもち、それらに影響されるのか、何が永遠に存在し、何が常に自由なのか、そして、何が過去や未来やカルマに影響をされずにとどまるものなのかを、あなたは理解するだろう。
質問者:自由意志とは、存在するのでしょうか。
マハリシ:誰の意志だろうか。行為者である感覚があるかぎり、それを楽しむ感覚と自由意志の感覚は、存在するだろう。だが、もしこの感覚がヴァイチャーラ(真我探求)の修練によって失われたなら、聖なる神の意志が働いて、出来事の流れを導いてくれるだろう。ジュナーニによって運命は克服される。真我の知識は、自由意志も運命も超えているからである。
私が行為しているという感覚があるかぎり、自由になにかを決めているという感覚はあるが、その行為の結果としての果実である喜びや悲しみ、苦しみを受け取らざるを得ないが、もし、そうした感覚が真我を実現することで失われれば、物事は自然と神の意志にしたがって流れて行き、苦しみや悲しみから解放されると言っているのだろう。
真我に焦点を合わせるということは、回転する木馬の中心に座るように、絶対の平安の中に安住し、ただ、すべてを眺めているということだろうか。そのような心境にいたれば、運命に左右されることもなく、自由とか不自由とか問題にすることもないのだろう。
アンマを見ていると、生き生きとして、子供のように純粋で活動的で、ただ座っているだけが聖者ではないということがよくわかる。
カルマは、日本語でいうと業とでもいうのだろうか。元々は単に行為を意味する言葉のようだが、その行為の結果のこともカルマというようである。原因と結果の因果の法則にのとって、良い行いをすれば、いい結果を受け取り、悪い行いをすれば、悪い結果を受け取り、苦しみの原因となると考えられている。上の写真の麦の色もカルマの結果といえるだろう。エゴを消して精神的に高まって行けば、麦のように金色に輝くこともできるのだろう。収穫期になると、なぜこうした見事な色で輝くのか、実に不思議なことだ。
道元禅師の言葉にも、善悪の報に三時あり、一つには順現報受、二つには、順次生受、三つには、順後次受とあるが、インドでもカルマを三つに分けるようである。
以下にまた、「あるがままに」から引用してみよう。
1,サンチタ・カルマ 前生から積まれてきたカルマの蓄え。
2,ブラーラブタ・カルマ サンチタ・カルマの一部で現世で清算されなければならないもの。カルマの法則は人間の活動における決定論を意味するため、プラーラブタはしばしば運命と訳されている。
3,アーガミー・カルマ 現世で積まれた新しいカルマ、この一部が来生に持ち込まれる。
質問者:この身体が終わるまで続くと言われているプラーラブタ・カルマを、身体が存在するうちに克服することができるでしょうか。
マハリシ:できる。カルマは、身体と真我の間に生じた自我と呼ばれる行為者に依存してる。
自我がその源の中に溶けて姿を消してしまえば、それに依存しているカルマも生き残ることはできない。それゆえ、「私」がないところにカルマもない。
質問者:プラーラブタ・カルマは、前世から積まれてきたカルマの小さなひとかけらにすぎないと言われています。これは本当なのでしょうか。
マハリシ:人は前世で多くのカルマを積んできたかもしれない。そのなかのわずかのものだけが、この生のために選ばれ、人はその結果を現世で味わうことになる。それはちょうどスライドの展示会で、投影する人がショーにだすスライドだけを選び取り、残りのスライドは次のショーのためにとっておくようなものである。これらのカルマはすべて、真我の知識をうることによって破壊される。過去の体験の結果であるカルマがスライドであり、心が投影機である。その投影機が破壊されなければならない。そうすれば、これ以上の投影はなく、これ以上の誕生も死もないだろう。
誰もが、真我に到達するというのは、無理なような気がする。しかし、こうした知識に立脚した社会を作ることは可能だろう。そうすれば、この世の矛盾も混乱も収まり、安定した平和で豊かな社会を作ることができるように思う。
以上「あるがままに」から引用
さらに引用してみます。
質問者:苦しみがやむのはいつのことでしょうか。
マハリシ:個我が失われるまでは無理である。善行と悪行がいずれも神のものなら、どうして喜びと苦しみだけがあなたのものなのか。善と悪を行う人が喜びも苦しみも味わうのだ。あるがままにあらしめなさい。そして、自分自身に苦しみを押しつけるのはやめなさい。
質問者:なぜ、苦しみが存在しないと言われるのでしょうか。私はあらゆるところに見ているのです。
マハリシ:ハートとしてすべての人の内に輝く自己の実在は、純粋な至福の大海である。それゆえ、空の青さが実在でないように、苦しみも実在ではなく、単なる想像の中にしか存在しない。無知の暗闇に妨げられることのないジニャーニの太陽は、自ら幸福として輝いている。それこそが自己の実在であり、苦しみとは個人という偽りの感覚から生まれた幻でしかない。実際、幻として以外に苦しみを体験した人はだれもいない。もし、至福である真我を探求すれば、生涯苦しみを味わうことはないだろう。身体が「私」であるという観念、ただその妄想だけが苦しみの原因なのである。
では、どうやってその妄想から抜け出すか。自分の場合は、「青い海」の気功を教えることと、般若心経と唱えることで回復しました。この世の一切が「空」である。といういことを繰り返し繰り返し身体と心に染み込ませてゆく、実際に声を出し、全身の細胞を振動させることで、しだいに苦しみの原因となっていた心の傷が癒されて行きます。方法として単純でやる気さえあれば、だれにでもできるので、お勧めです。なにも高いお金を払って誰かや何かに依存しなくても、自然と精神の健康が回復してきます。「青い海」の気功は、精神的、肉体的な緊張をほぐし、しだいに緊張した意識を溶かして行き、心を浄化して、子供のころのような純粋な意識の状態にもどすのに効果があります。やがて、心臓のなかが温かくなるよに感じ、大海に溶けたような喜びを感じることができるようになるでしょう。
私たちの本来の姿は、至福の大海だそうですので、できるだけたくさんの人がそのことに気がつけば、世の中は、もっと明るく生きやすいものとなるでしょう。
久しぶりにラマナ・マナリシの本が帰ってきたので少し読み進んでいる。その中に、輪廻転生についての記
述があるので紹介してみます。
質問者:輪廻転生は真実でしょうか。
マハリシ:無知が存在するかぎり輪廻転生は存在する。本当は、輪廻転生などまったく存在しない、いまも、いままでも、これからも、これが真理である。
実に明確な答えだ。こうした明快さが、ラナマ・マハリシのすばらしいところだ。昔、禅と太極拳の師匠にこのことを聞いたところ、なんだかわかったようなわかないよな答えをいただいた。その辺のところが、仏教では曖昧なのだろうか。その辺の質問があるので引用してみます。
質問者:仏教の見解には、個人の魂という概念に一致した転生する実態は存在しません。これは正しいのでしょうか。これは、輪廻転生する自我というヒンドゥー教の概念と一致するのでしょうか。魂とは、ヒンドゥー教の教義が示すように、何度も何度も生まれ変わる実体なのでしょうか、それともそれは単なるサンスカーラ、精神的傾向の集合体にすぎないのでしょうか。
マハリシ:真我は永遠に存在し影響を受けない。転生する自我はより低い次元、つまり想念の次元に属している。それは真我実現によって超越されるのである。
輪廻転生は、ヒンドゥー教の偽りの分派による概念である。それゆえ、それは仏教徒によって否定された。現状における無知は、意識(チット)と生命のない身体(ジャダ)の同一視によるものである。
質問者:私は輪廻転生からまぬかれるように試みるべきではありませんか?
マハリシ:そのとうりだ。いったいだれが生まれ、誰が今、現在の問題を抱えているのかを見いだしなさい。眠っている時、あなたはあなたの輪廻転生や現在の生について考えるだろうか。それゆえどこから現在の問題が生じたのかを見いだしなさい。そこにあなたは解決を見つけるだろう。あなたは誕生も現在の問題も、不幸も存在しないことを発見するだろう。真我がすべてであり、すべてが至福である。今でさえ、我々は輪廻転生に対して自由なのだ。なぜ、それについて嘆き悲しむのか。
以上「あるがままに」ラマナ・マハリシとの対話より引用
チベット仏教では、転生仏がいて、彼らは、生まれ変わると言う。実際に悟りが継続しているかどうかが問題だろうが。なかには生まれ変わりが二人いてもめているところもある。真我を悟るということからすると、少し無理がある考え方なのかもしれない。
その点、ラマナ・マハリシの説明は、簡潔である。だれもが、今この瞬間に輪廻転生から自由になることができるし、実際は自由だと言ってくれている。この本の表紙にある彼の澄んだ目がすべてを語っていてくれている。
いよいよ話は、佳境に入ってきます。
「はじめの出来事は、ちょうど今年の夏も終わるアンマの誕生日の直前のことでした。
その晩アンマは部屋の外に出て、来客と時々お会いするための小屋のそばにいました。そこはジャスミンの茂みがあり、よい香りを放つ花がたくさん咲いていて、地面に落ちていました。落ちている花を見て、アンマは思いました。
「この花は、多分泣いている。自分たちは地面に落ちてしまって、もう神に捧げられることはない、と思って悲しんでいる」
それでアンマは花を幸せにしてあげたいと、その花を拾い始めたのです。・・・・・・
ある人が
「海のために花飾りをつくるのですか。」と尋ねたのです。それを聞くとにわかに4,5人が、アンマに同じことを考えていたと言い出しました。そして、みんなはアンマに海に花を捧げるかどうか尋ねはじめました。
アンマはそれを聞いて、たぶんこれは海がそうアンマに伝えたがっているのかもしれないと思い、針と糸をもって来るように言って、花輪をつくり始
めたのです。やがてアンマは自室に戻ってくると新鮮なまま冷蔵庫にしまっておくようにおっしゃいました。海岸に行く途中に何人かの修行僧にすれ違った時、アンマは彼らに向かって、海に花輪をあげたいのだけれど、それは海が自分で取りに来たらあげるのだとおっしゃっていました。アンマたちが浜辺につくと、アンマはいつものように岩の上に登ってすわり、しばらく瞑想をしていました。その後で私から花輪を受け取り、右手を前にまっすぐ伸ばして花輪をその手に握りしめたまま、、アンマは海に向かってこうおっしゃいました。
「さあ、もし、本当にこの花輪がほしいならば、ここに来て私を包み込み、この手から花輪をもっていきなさい!」
私は微笑みながらも、同時に少しがっかりしていました。海面は、二、三メートルも下にあり、波がそんなに高くなることは絶対にありえない、海が花輪を取りに来るのは不可能だと知っていたからです。
しかし、アンマのその言葉が言い終わるか終わらないかのうちに、急に下の方から巨大な波がせり上がってきてアンマの頭上まで高くあがったか
と思うと、今度は上からもう少しでアンマを押し流してしまうくらいに強い力で打ち寄せていったのです。でもアンマはなぜか流されずに座ったままで、波はアンマの手から花輪をもぎとると、下の海へと戻っていきました。
私は驚愕して、アンマと海のあいだにある愛の深さに、目をみはって言葉もありませんでした。」
海は命の故郷。私たちも背骨のかなの脊髄液という海に、未だに浮いて思考しているのかもしれません。「青い海」の気功で意識の海にとけ込む時、海と私たちは一体化します。でも、アマチのようにその海を動かすことのできる人は、めったにお会いすることができません。
昔、船の上から空き缶をすてる人を見て、不思議に思いました。なぜなら、海も私たちも一体なのだから、それは自分自身の身体の中に空き缶をすてるのと同じことだからです。
さらに引用をつづけます。
「アンマが子供のころ、誰からも、家族からも見放されていたときに、海はアンマの慰めでした。アンマは自分の悲しみ、喜びのすべてを海に語りかけました。海に向かって歌をつくり、神を求める歌を歌っていたのです。
最近まるでアンマは、そのころに戻ったようなところが少しあります。たとえば二ヶ月まえほど前にアメリカ・ツアーからインドにもどってきたころ
から、アンマは毎晩のように海岸に通うようになったのです。アンマのアシュラムは細長い土地にあって、その土地の西側は、洋々たるアラビア海に面していま
す。アンマの部屋から海岸までは、歩いて三分とかかりません。浜辺には、巨大な岩が防波堤として築かれていて、村が海に浸食されるのを防いでいます。
毎晩、アンマは、海面から二メートル以上高いこの岩の壁の上にすわって、二、三時間瞑想に没入するのです。それからバジャンをいくつか唄い、浜辺ぞいにもう、二、三時間歩き、そのあとやっとアシュラムに戻るのです。
・・中略・・・・
わずかのあいだでしたが、アンマは私に浜辺に同行することをお許しになりました。そこで体験したいくつかの出来事を、みなさんにお話したいのです。
それは、海やすべての自然は生きていて、それぞれが意識や感情をもっているアンマが尾おっしゃる言葉を、明らかに証明します。
一度、この真実を悟れば、自然に危害をくわえつづけることはできなくなります。木を切り続け、水を汚し続け、自然から奪い続けることはできなく
なります。そのことに関してアンマは何回かいろいろな警告を発して、私たちが害をなし続ければ、いつの日か母かる大自然は反発して反撃してくるとおっしゃ
いました。そのことについて、お話したいのです。」
ミャンマーでは、サイクロンで、中国では地震でひどい被害がでてしまいました。日本も地震大国ですから、ひ
とごととも思えません。今日もホームレスの男性が、以前、女子大生に放火されたというニュースを聞きました。自然や動物に対してどころか、人間に対しても
危害を加えるようになってしまった最近の若者はどうなってしまうのでしょうか。人間としてなにか大切なものを無くしてしまったとしか言いようがありませ
ん。
そんな時、アンマの素朴で力強い歌声を聞くとほっと救われた気持ちになります。そして、一方で、最近、アンマのところへくる若者の姿が増えているのも事実です。アンマの教えがたくさんの人々に本来もっている人としての優しさを思い出させてくれるではないかと思います。
さらに続けて引用します。
「神を体験することは、この一体感をあらゆる物、あらゆる人の中に体験することです。一人や二人ではなく、ありとあらゆるものと一体になるのです。その幸福はたとえようもないものだと、アンマはおっしゃいます。
海を見ると、私たちはその幸福をかいま見ることができます。海は私たちに広大な本当の姿を思い出させてくれるからです。海はアンマにとって、格別にひかれる相手のようです。それは、海がアンマの本当のお母さんであるかのようです。」
「青い海」の気功をしているとしだいに意識は海の中へと溶けて行きます。その海は、次第に宇宙へと広がり、最後は光そのものへと変化してゆきます。いつしか、自らも光そのものとなり、
光の海で泳ぐのです。二年前にアマチが来日した時にダルシャンをしている会場の2階で、「青い海」の気功を教えさせていただきました。その写真を
見てアマチがにこりと笑ったといいます。きっと、アマチは海に溶けた私たちの意識が、アマチの大きな海のような意識の一部として揺らめいていたのを知って
いたに違いありません。
二年前の夏にインドのアマチのアシュラムに行った。シンガポール経由で、アシュラムに着いたのは、夜中の3時頃だったろうか。とりあえず、部屋に案内されると、ひとりがらんとした部屋で波の音を聞きながら眠りについた。アマチのアシュラムは、アラビア海にめんしていて、海がすぐ近くにあった。
アマチの「人と自然と」という小冊子を読んでいたら、ラクシュミという女性のお弟子さんの「アンマと海」という文章が載っていた。ちょうど「青い海」の気功とも関係があるので、引用してみようと思う。
「皆さんにアンマと海のつながりについてお話したいと思います。
海という言葉を聞くだけで、私たちは広がって大きい感じを想像します。その果てしない美しさを見るとき、心配ごとはすべて忘れられてしまいます。波の音を耳に傾けているだけで、心は静まってきます。
なぜ、みんな海を見るのが好きなのでしょうか?その広大さ、果てしない広がりのためではないでしょうか。そこにはしきいのない、境目のない、ひたすら無限に尽きない美しさがあるからです。
私たち一人一人はみな、心の奥に海があります。至福の海です。それが私たちの本当の姿、つまり、すべてにまねく宿り、境目がなくひとつながりで区別をしらない本当の自分です。
でも、それが本当の姿なのに、私たちはそれを見失ってしまいました。しかし、ひとつながりである感覚こそが、私たちが求め、切望してやまないものなのです。だから知らず知らずのうちに私たちは他者との関わりの中にその一体感を見いだそうとします。
人と人がたがいに深く愛しあうとき、自分のことはすっかりと忘れてしまいます。それはまるで、この一体感を体験したいがために、相手の中にとけ込もうとするかのようです。私たちは、たがいの距離がまったく無ければよいと願います。自分の限られた人格の殻から抜け出て、相手の中で一つになりたいと望みます。こうして一体となることに、私たちは幸福を感じるのです。」
生身の人間のなかにこの一体感を求めることは、一時的には可能だろうが、最終的には残念ながら裏切られることが多いように思う。「今生は、だめだから、また、来世できっとあなとを探し出す」なんて言われても、きっとそういう人は、また、同じことを来る返すにちがいない。
そういう人に対しては「残念まがら、来世はもう生まれてこないので」と断るにこしたことはない。どうせ恋をするなら、けっして裏切ることのない、海のような愛をもつアマチのように純粋な意識に到達した聖者に恋をするにこしたことはない。
「青い海」の気功は、ただ鯨のなきごえが入った海の音楽を聴きながら動くだけで、しだいに意識が溶けて、その広大な海と一体化してゆくことができる。あえてだれかを愛する必要もない、すべてが自然にアマチの意識の元にある海の世界へと溶けて行く、そこではきっとアマチともひとつにつながっているに違いない。
再び引用してみよう。
パパジ:ここに誰か仏教徒でこの言葉についてよく知っている人がいるかね。
質問者:「真如」という言葉に加えて、仏陀は彼自身を表すために「彼方へと超えた者」(タターガタ Tathagata)という言葉も用いました。
パパジ:そうだ。その両方の意味を私は聞いたことがある。私はパーリー語を知らないため、これらの言葉に確かな注釈をつけることはできないが、「このように来るが」私の聞いたこの言葉のもう一つの訳語だ。それは「この瞬間」「この存在」を示している。
仏教徒は、「往けり往けり、彼岸に往けり」と言う。あなたは彼岸に往く、だが彼岸おも超えて行くのだ。それからあなたは、彼岸の彼方へと超えて行く。彼岸へと向かっている間は、あなたはまだ、二元性のなかに、まだ心の中にいる。方向や目的地について熟考することはできる。だが、心を終焉させるには、あなたは心の定めた目的地のさらなる「彼方の彼方へ」と超えていかなければならないのだ。
心が消え去った瞬間を示すもう一つの言葉がある。それは心が形のない彼方に消え去った後に続く「スヴァーハーswaha!」という感嘆句だ。私はこの言葉について多くの人に尋ねたが、一度も満足のいく答えを得られなかった。これが心が消えてゆく瞬間の最後の言葉、あるいは実際に心が消え去った後の言葉だ。それはなんの特定の意味を持たない。心にはその瞬間を理解し描写することができない。それゆえ、その場所から現れる言葉に、心が理解できるような意味を与えることはできないのだ。
覚醒の後言葉がある。その場所で私たちは何にしがみつけるというのだろう。智慧、悟り、解放、自由にしがみつけるというのだろうか。そこではこれらの言葉さえ役にたたない。ここではすべてが終わる。サンサーラもニルバーナも消え去った。それらは相互に関係しあって存在していたのだ。心は終わり、顕現は終わり、創造者は終わり、創造も終わった。「内に宿る」者は完全に消え去った。これが心から、終わりのない輪廻転生から、顕現からの完全な解放だ。それは一瞬にして起こる。
ギャーテー、ギャーテー、ハーラー、ギャーテー、ハラソー、ギャーテー、ボジーソワカー、
と日本語では、唱えている般若心経の真言には、こんな意味があったということがはじめてわかりました。プンジャジがいうと真理は実に簡単明瞭です。般若心経の解説書は最近たくさんでていますが、ここまで簡潔にその意味を説いた本はないように思います。それは、彼が自分の言葉で自分の体験から語ってくれているからでしょう。
もうすぐ一万回ですので、この言葉をかみしめながら唱えて行きたいと思います。
プンジャジの「覚醒の炎」を読んでいたら、般若心経のことががでてきた。ちょど般若心経を唱え続けて一万回に近づいているので、完全に本とシンクロしているようだ。真我がしだいに近づいてきているのかもしれない。
「感覚はいつも過去のできごとにしがみついている。心はその感覚を通してあなたを過去へと連れ戻す。あなたが見るものはすべて心の創造物であり、心は常に過去のなかにある。時間の存在しない現在の瞬間には、心は存在しない。心がどこから現れるのかを見いだしなさい。
そして、それがその場所に消え去るのを見守りなさい。そうすればあなたは時間もその場所に消え去ることを発見するだろう。心の消滅は、あなたが心配しなければならないようなものではない。あなたはそれなしでも充分生きていけるのだ。私が語るその場所には「心」という言葉も他の言葉も存在しない。あなた自身に語るために言葉はいらない。
言葉が現れると、それはあなとを真我から連れ去ってしまう。言葉は、常にあなた自身の沈黙にとっての、障害、障壁、弊害なのだ。あなたが真の我が屋で楽しんでいる時、それを描写するための言葉は入り込まない。沈黙は、言葉や時間に遮られることのない絶えざる流れだからだ。
これが超越の場だ。それについて語るものは誰もいない。それを描写するために言葉は当てはまらない。仏教徒にはそれを指し示す良い言葉がある。「タタターtathata」という言葉を聞いたことがあるだろうか。ふつう、それは「真如」(あるがまま)と翻訳される。それはただそうであるものなのだ。もし言葉をもちいなければならないなら、このような言葉をもちいるがいい。あなたの心にあたらしい概念を吹き込まなもの。根底にある真理をただ指し示す、あるいはほのめかすだけのものだ。」
「時間の存在しない現在の瞬間には、心は存在しない」この言葉は、おおいにヒントになりそうだ。今というこの瞬間は、時間から解放されていたのかもしれない。時計を意識することが「時間」を生んでいたといことだろうか。この言葉をマントラのように唱えるといかもしれない。「真如」という言葉も「あるがまま」と訳されると実にわかりやすい。自然に身体に入ってくる。この言葉をウィキペディアで調べたら実にわかりにくかった。すでに概念化されてしまったいたからだろう。真理は、シンプルでわかりやすいものだ。概念化された言葉は、凍った水のようなもので、自然に身体に流れこんできてくれない。だから、プンジャジのように実際に体験した聖者の言葉必要なのだろう。
この続きは、また、次回に!
プンジャジの本を読んでいたら、「信心銘」がでていたので驚いた。このお経は、以前、太極拳を習っていた時に、その会の基本のお経として唱えていたものだ。あのころは、言葉も難しくなんとんなくわかったような気になっていたが、プンジャジの本のなかで、意訳された文章を読んで、その意味がよくわかった。螺旋の階段を長い年月をかけて登ってきて、今、また同じような位置にいるようだ。その意味するところをよりシンプルに端的に理解して、以前よりは深まっているが。
至道無難、唯嫌揀擇、但憎愛莫ければ、洞然として明白なり、
毫釐も差有れば、天地懸に隔たる、
現前を得んと欲せば、順逆を存すること莫かれ、
違順相爭う、是を心病と爲す、
玄旨を識らざれば、徒に念靜に勞す、
大いなる道は難しくない
選り好みをせず
愛することも憎むこともなければ
全てははっきりと明らかになる
だがわずかでも分別をすれば
天と地は遙かに隔たる
真理を実現したければ
賛成や反対の見解を抱いてはならない
一つを嫌い一つを好むことは
心の病だ
物事の本質を理解しないとき
心の平和は徒に乱される
お経として読む分には、上の文章の方がいいように思いますが、意味を理解するには、下の文章の方がわかりやすいですね。プンジャジの本を読んでいると、「ああ、やっぱりそれでよかったのか」と思うことが多々ありました。なかでも、想念と想念を見るようにと言う言葉は、瞑想の際の参考になっています。
この世の真理とは、意外と単純なのかもしれない。
現代人が、鬱病など心の病になやまされるようになったのも、どんどん世の中が複雑になってしまったからかもしれない。「三丁目の夕陽」のころは、今よりも貧しかったが、遙かに幸せだったような気がする。その頃は、母はおかちゃんでちゃんとうちにいて、たえず太陽のように輝いて家のなかを照らしていたし、看護師は、看護婦さんでふくよかな優しさに安心して身を任せることができた。
「24」というアメリカのドラマを見ているときつい目をした女性がたくさん働いている。そして、主人公のジャック・バウアーは24時間走りっぱなしだ。「昔、24時間働けますか」というCMがあったか、まさに彼こそジャパニーズ・ビジネスマンの典型である。
受験勉強という競争がはじまった子供のころから、いつも何かにせっつかれているような、追われているような感覚につきまとわれて、それが世のなかをジャック・バウアー化しているのかもしれない。いつも走っていないと不安で、自分が崩壊してしまうような恐怖を感じているのかもしれない。
しかし、立ち止まって世のなかを冷静に見てみれば、平家物語にもあるように「盛者必衰」「諸行無常」の理を現すように一時的に勝ち誇ったかに見えた人々も皆問題を起こし沈んでゆく、この世はたえず変化して止まないものだということがわかる。
自分の外に在るものを手に入れようとして手はいらないと不満が高まり、絶えず変化しているものを永遠のものとして執着するとそれを失った時にひどい悲しみと苦しみに襲われる。
「単、純、明、解」とは、一つのものに純粋に集中すれば自ずとすべては明らかになるということ。あれも欲しいこれも欲しいという欲望と他者に対する依存と執着から自分自身を解放して、内面を見つめて単純な行為を繰り返し行うことによって、しだいに心が静まり元々あった平安と喜びの世界に帰ることができるということ。
最近、般若心経の本をよく書店でみかけますが、確かに声をだして唱えると効果があります。私も一万回を目指して毎日唱えていますが、現在6500回で唱え始めたきっかけとなった心の傷といったものは、どこかにふっとんでしまいました。気功もまた直接的に心と身体に喜びをもたらせてくれます。安易に薬にたよって、今度は薬に対する依存症になって苦しむよりは、自らの努力で根本的に悩みを克服したほうがいいように思います。
自分自身を信じて内面深く掘り下げてゆけば、永遠に続く喜びと平安という本来の自己に至ことができると思います。
「私は幸せになりたい」という人には、「私は」と「なりたい」を取ってみてくださいという。
確かにそれらを取ると、「幸せ」だけがのこる。でも、意外とそうするのは難しい。
わかっちゃいるけど止められないのが人間だもの。
「青い海」の気功を教えていて、宇宙のエネルギーを巻き込むという最後の方の動きで、
小指から巻き込む指を中指で眉間のチャクラ(慧中)に当てたら、これがたいへん
すばらしい。ちょうど甘露が眉間から流れ込むような形になり、頭の中心が温かな
お湯で溶かされてゆくようだ。その温かさはそのままハートのかなにまで達し、
ハートも溶かすと足に向けて流れ落ちてゆく。思考が止まり全身喜びのなかに
溶けてゆく。とても幸せな気分になる。
気功とは、具体的に人を幸せに導くための技術なのだ。別に外に喜びを求める
必要もなく、今すぐにあなた自身の気の力で幸せなることができる。
知的障害のある息子の食事している所をyoutubuにアップしている。ほとんどの人は、好意的な優しいコメントとしてくれるのだが、中には不躾で悪意のあるマイナスのコメントをする人がいる。箸の持ち方が変だとか、茶碗の持ち方がおかしいから、直せとか。しかし、世の中、絶対ということはない、すべてが相対的な世界にあって、自分だけが正しいと信じ、人を批判することこそ、「変」なのだ。だいたい人といのは、皆少しずつ変わっていて、「変」なのだ。でなければ、まるでロボットかサイボーグのようではないか。
まったく同じ人間ばかりだったら、それこそきもちが悪い。それぞれ違って、個性があるから面白いとも言える。特に障害のある人やその家族に対して、そういう言葉を発するのは、慎むべきだ。だれだって好きで障害を持って生まれてきた訳ではない。しかも、自分がいつそうした障害を持ってしまうかはだれにもわからない。どんなに若い時は、優秀であったとしても、年を取って認知症が入れば、思わぬ事故を起こし、最後は、刑務所で終わってしまうといこともある。
「変」の上の部分を変えれば、「愛」になる。だから、障害のある人を見るときは、上から目線で「変だ」と思うのではなく「愛」持って見守ってほしいと思う。なぜなら、それはちょと先の自分や家族の姿なのかもしれないからだ。
普段、気功教室で教えているヨガの動画を作りました。気功ヨガを呼んでいますが、ポイントは3つあります。第一に脳の中心にある間脳(自律神経とホルモンの中枢)に刺激を入れて活性化すること。 第二に脊髄を左右前後に動かすことで刺激をいれて、柔らかで強い背骨をつくること。第三に仙骨と腸骨の間にある仙腸関節に刺激を入れて、骨盤周りを柔らかく保つこと。この三つのポイントに焦点をあててヨガを組み立てています。
この動画を見ながら一緒に身体を動かし、いつまでも健康で元気でいられるよに努めてはいかがでしょうか。やはりある程度若いうちから始めた方がいいかもしれません。いつまでも柔らかい背骨を保つことが、若さと健康の秘訣だと思います。特に一日中パソコンを見つめている仕事をなさっている方は、股関節がからまり猫背になり首肩が凝ってくると思いますので、ぜひ、試してみてください。
一時期サウナが流行りましたが、別に特別な所へ行かずとも、自宅で横になって、この気功ヨガをしていただければ、心と身体が整って、次第に深い瞑想状態へと入って行くこともできるようになるでしょう。余裕があったら、この後に「青い海の気功」をやっていただければ、ますます深い意識の大海へと溶け込んで行くことができるでしょう。
94才でYOUTUBUをやっているお袋さんに初めて気功を教えてみました。以前、兄貴と組んでバレーの動画をアップしたことがあるので、そちらで見たことのある人もいるかもしれません。BSテレ朝の草の仁さんが司会をしている健康番組にも出たことがあるのでご存知の方もいるでしょう。
一緒に動いてみると意外と大変そうでした。気功は、腰を落として踵に重心を載せた動きが多いので、足腰にに効いてしまうのかもしれません。そう思うと若いうちから来て、継続して練習していることがいかに大切かということがわかります。動画ではありますが、健康になりたい方は、ぜひ、一緒に動いてみてください。
まだ「青い海」の気功そのものを教えていないので、これからも動画をアップしてゆきますので、よろしくお願いします。
今年の夏も豆腐大根ミックスサラダダイエットに挑戦しました。結果は、3キロ減量に成功し、満足しています。今まで、スエットスーツを着て走ったり、いろいろと試しましたが、この方法が一番簡単で確実に効果がでます。皆さんに伝えてぜひ試してもらいたいと思っているのですが、意外を受け入れられていません。
7,8,9月の夏の暑い間、一日のうち一食を豆腐大根サラダを食べるだけの簡単なものです。大根の消化酵素が効くのではないかと思いますが、意外と腹持ちがよく気がわき上がりさわやかな感じで続けることができます。夜寝ていて暑いので、自然と汗をかくのもいいのだと思います。初めてこの方法を試した時には、5キロの減量に成功して驚いたものでした。今年は、3キロですが、お腹周りの脂肪が増えて太鼓腹突入かとマジになって焦って頑張った結果成果がでました。
とにかく脂肪爆発の傾向を止めることが大事かと思います。今では、お腹周りもすっきりして毎日快適に過ごしています。これから寒くなるので、体重が増えないよう気をつけてきたいと思っています。
簡単で効果的な方法なので、ぜひ、皆さんに試していただきたいと思います。
一昨日、長い間、往診マッサージに通っていた患者さんが、亡くなりお葬式に行ってきました。その方は、10年ぐらい前のお正月に階段から足を踏み外し、頸椎を損傷してしまいました。それでも奇跡的に一時は回復し、歩けるようにまでなったのですが、コロナが流行りまた寝たきりの生活になり、だんだん衰えていきました。
なかなか気さくな方で、マッサージをしながら話すのが、楽しい方でした。家族や施設の人たちにも愛されていたのではないかと思います。先週の水曜日にマッサージに伺いその翌々日に亡くなられたということです。最後まで、施術を受けて頂きありがたいことだと思います。
往診マッサージは、治療院から16キロ以内であまり遠くまでは行けませんが、こうして縁のある方がいれば、ぜひ、施術させていただきたいと思いますので、気楽にご連絡ください。
「青い海」の気功の紹介動画を作りました。簡単でだれにでもすぐに出来る気功なので、ぜひ、試してみてください!動きながらクジラになって、青い海を泳いでいき、しだいに意識の大海に溶けて心と身体が解放されてゆく気功です。とても気持ちがよく、体も楽になってゆくので、お勧めです。
太極拳とかも随分ながく教えたり学んだりしてきましたが、形が難しく覚えるのに大変な時間がかかります。そのためになかなか気感を得るのが難しいですが、この気功なら動きが優しいので、すぐに気を感じることができるようになると思います。
優しい動きとクジラになって海の中を泳ぐイメージで、生命エネルギーの流れになって、意識の大海へと溶けてゆきます。身体も次第に緩んでくるので、全身に気が巡り身体が温かくなり、心地よくなってゆきます。最後は、湖に映る満月が光りと化し、水見全体に広がって自分たちもその光の中に溶けて消えてゆくイメージで終わります。本当に気持ちが良いので、ぜひ、一緒に動いてみてください。
今日も朝から般若心経を唱えながら瞑想した。するとこんな言葉が降りてきた「すべては流れ来たり流れ去るものなり」。人や物あらゆる物が、一時的に自分の所に来るが、それらは時間の経過と共にやがては流れ去って、消えていってしまう。「無い物をあると錯覚して、それに執着することで苦しみが生まれる」。最近、年をとるに従って、昔出会った人たちとの関係も消えてきてしまった。特に東京など遠くにいる友達との関係が消え去ってゆく。おそらくもう二度と会うこともないだろうし、それを懐かしむ自分自身が消えてゆきつつなるのだから、それも自然の流れなのだろう。
すべてが流れ去ってしまっても、最後に残る物があるとすれば、それが本当の自分だ。あるいは、それも流れ去ったゆくのか。「吸う」「吐く」「吸う」「吐く」、呼吸だけが残ってゆく。しだいに深い意識に落ちながら。こうして深く自分の内面に入るのは、久しぶりの気がする。これからは、外の出来事、意識の海の海面にある波の動きにその焦点を合わせること無く、深く海底にある充足と喜びに帰ることを忘れずに行こうと思う。
大切な家族に対する指圧法をより具体的に解説してみました。指圧する時は、その体勢が非常に重要なので、施術者の姿勢が映るようにしてみました。普段着で指圧したので、色が濃くていまいちはっきりしない所もあります。次回撮影する時は、できるだけ白い物を着て施術してみたいと思います。コントラストがあった方が、腕の動かし方もよくわかると思うので。
ただ、皆さんが家族を指圧なさる時は、普段着なので、そうした時の参考になったのではないかと思います。太極拳を練習した時も、あまり道着に着替えると言うことはありませんでした。武術を使う時は、普段着で使う訳ですから、その方が理にかなっているのかなと思ってました。同じように家族に指圧をする時は、改まって行うものではなく、日常生活の延長線上で行う訳ですから、普段着の方がいいのかもしれません。
気功指圧の要点は、押すのではなく、うまく体重を乗せてゆき、相手の筋肉が緊張することのない、自然な圧をくわてゆくことにあります。そうすることで天地の気が自然に相手に流れ込んでゆきます。あくまでも相手の中心線にある中脈を開き、そこから気がわき上がるようにして、自然治癒力が働くように導きます。
先週の土曜日の午後5時からBS朝日の「からだ若返りTV」でうちのお袋さんが放映されました。今日の5時までTVerで見られます。その時に指圧のシーンも撮影していったのですが、実際の放送では完全にカットされていました。テレビ局の方針が、西洋医学偏重でカットされたのかどうかわかりませんが、毎晩の指圧が彼女の健康と長寿に貢献していることは確かな事だと思います。機械でも動物、人でも、それを動かしているのは、エネルギーである電気や気ですから、その一番根本の所を無視してはなりたたないはずです。
そこでさっそく自分で「大切な家族を指圧する方法」を動画にしてアップしました。これを見れば、母親や父親など大切な家族を指圧するだいたい手順が分かると思います。ポイントは、指先に力を入れるのでは無く、手の平で包み込むように腕や身体を押さえてゆくということです。指先に力を入れてもまれると、ただ痛いだけですが、こうして手の平全体で押さえると柔らかな気持ちの良い圧がかかります。そして、手の平の中心から気が相手に流れ込んでゆきます。
命とは、水のように絶え間なく流れる生命エネルギーである気の流れです。それを肉体と錯覚して、そこへ執着してゆくのは、ただただ苦しみが増すばかりです。なぜなら、物質である肉体は、いつ消えて亡くなってしまうかわかないものだからです。この間の地震のように突然訪れるかもしれないし、100年以上生きた最後に訪れるかもしれません。いずれにしても波のように変化し、やがては消えてしまうものをすべてと思い込んで、その示す数値に一喜一憂するのは、間違っていると思います。むしろ、肉体を超えた死んでも死なない命を求めて生きるのが得策ではないでしょうか。
うちの玄関の真ん前の木で、今年もキジバトが子育てを始めました。今年で3年目になりますが、その巣が手を伸ばせば届きそうな高さにあるためか、いつも巣立ちの前にカラスか猫に襲われてしまい、まだ一羽も巣立ったことがありません。しかし、キジバトの親は、まるで何事もなかったかのように次の年の春になるとまた同じ場所で子育てを始めるのです。今年も雛がまた襲われて、巣立てないかもしれないなどということはまるで考えていないかのように。
人間だったら、子供を失ったら、とてもではないですが、また、同じ場所で同じように子育てをするということはできないのではないでしょうか。心が張り裂けるように苦しくて、回復するまでにはかなりの時間がかかるのではないかと思います。また、思考力がありますから、外的に襲われないような違う場所を選んで子育てするでしょう。場合によっては、相手も変えているかもしれません。
毎年のことですが、いつもキジバトのたくましさには驚かされます。今年も川で遊んでいた女の子が、三人も亡くなるという痛ましい事故がありました。考えてみれば、自分自身でさえいつどうなるかはわかりません。般若心経は、深い瞑想状態に入った時に、一切が空で実態がないということを悟って、すべての苦しみや災厄から解放されたと言っています。普段から、こうしたものを唱えて、いつどうなっても大丈夫な自分自身を作っておくことが大切なのではないでしょうか。