捨てる缶あれば、拾う人あり。

今年は、お正月から、子供と道端に捨てられた空き缶を拾って集めた。小野上温泉に向かう道端に落ちていた缶を拾って行った。特に林の中を走る道路の両脇で捨てられた缶を多く拾った。人が住んでいないと道路愛護で近所の人たちが、拾うことができないので、うち捨てられたままになっているのだろう。

環境美化→缶響美化→感興美家、こんな言葉が浮かんだ。以前、フェリーで沖縄に行った時に、船の上から飲み終わった缶を海に向かって投げ捨てる人を見たことがあったが、そういう人間は、狭いちっぽけな自己という世界で生きているだけなのだろう。車の外に平気でゴミを投げ捨てうる人間は、小さな自分というエゴの枠の中で生きているので、その肉体以外はすべて外の世界になって、ゴミを投げ捨てても自分とは関係ないと思っているのだろう。

もし、自分というのは、エネルギーの流れであって、この自然、地球、宇宙までも自分の延長線上にあると感じることができれば、外の世界がなくなるので、ゴミを自分のうちに捨てることはできないので、こうした愚かな行為もなくなるのだろう。平気でゴミを車の窓から投げ捨てる人は、その小さな自分という枠を壊して、もっと外の世界へ開放し、自然と一体になった生き方を探した方が、幸せな気分になることができるだろう。

都会の生活や仕事や社会に対する鬱憤を窓の外に缶と共に捨てるのではなく、田舎に来たら、その豊かな自然や人々の暮らしを敬い、逆に缶を拾ったりして、缶取りライフを楽しんで欲しいものだ。

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