桜は死と再生の象徴
昨日は、芝桜を撮りに行ったが、どうも桜と比べるととインパクトがなくいまいちだった。やはり、桜は、日本人にとって特別な花だと改めて思った。寒い冬を耐えて、枯れていた木々が一斉に新緑に染まり、命が芽吹く時、我々日本人の身体の中の命のスイッチにも火が付き、生命力がみなぎってくる。その時、喜びのあまり一瞬狂ったように酒盛りをして騒ぎたくなってしまう。それが、花見のどんちゃん騒ぎなのだと思う。
しかも、咲いたかと思うとすぐに散ってしまう。そのことが潔い良い生のあり方として理想とされてきた。要するに生に執着しないということだ。生に執着しないということは、死に恐れがないということ。散り際を桜のように美しくありたいというのが、日本人の願いだったのと思う。
ところが、敗戦後、アメリカの文化が乱入して、そうした文化が廃れ、ただ長生きするだけが医療の目的とされてしまった。挙げ句の果てに人生100年時代とか言われて、金がなければおちおち老後も過ごせないという不安の中に放り込まれた。桜のような散り際の見事さ美しさは完全に忘れ去られてしまった。
そして、今回のコロナ騒ぎ、多くの人が自宅待機に従い、テレビの報道をみては、不安の中に怯えているのではないだろうか。しかし、外出の自粛はしても心と体の萎縮は避けなければならない。普段から、死んでも死なない命を求めていれば、さほど死は怖いものではない。それは、自然の成り行きだ。こんな時は、いつも良寛さんのこの言葉を思い出す。「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、これはこれ災難をのがるる妙法にて候」後は禅の「生死の中に仏あれば、生死なし」という言葉を思い出す。
そんな想いを込めて、桜の動画に中に般若心経を入れている。今、不安の中にある人も、まずは般若心経を声を出して唱えることで、少しづつ元気がわいてきます。そして、コロナ騒ぎを忘れることができれば、不安もだんだん消えてゆくと思います。なんと言っても周りの状況に振り回されないということが肝心だと思います。