マスターとは
往診の帰りいつもの場所で、赤城を撮影した。今日は、うだるような暑さで、水沢の近くでも、夏が舞い戻って来た様に暑かった。この湿気と暑さで、また体調を崩している人も多いのではないかと思う。そんな中、上の写真にあるように夏まきの蕎麦の苗は、順調に育ち、その緑を増していた。
家に帰って昼食の後、また、「自己なき自己」を読み進めた。そして、どうしても引用したい文にまた出くわした。
以下引用
マハラジ:毎日、私は同じことを繰り返し、皆に同じことを言っている。「私の言葉を文字通り受け取ってはいけない」と。マスターが伝えようとしていること、そのエッセンス、意味、要点が重要なのだ。私たちは議論するためにここにいるのではない。語られた言葉を正確に研究するためでもないし、いろいろな教えを比較するためでもないし、マスターたちの比較研究をするためでもない。私の話を聞きなさい!
私はあなたに話しているのではない。あなたの中の静かなる、目に見えない聞き手に話しかけているのだ。
質問者:マスターの存在や対話も、ある種のゲームのようなものに過ぎないのですか?
マハラジ:初めの段階では直接的な知識を与え、「弟子」に自分もマスターだと思い出させるために、マスターが必要だ。マスターは、弟子とマスターの間には違いはないという確信を与えるのだ。マスターが弟子を確信させるプロセスを始めて、そして弟子が自分自身を確信させることで、このプロセスは続いてゆく。
マスターは、究極から話をしている。マスターは身体形態の制限を超えており、幻想に囚われていない。マスターは知っている。なぜなら、マスターの知識は真我知識、直接的な知識だからだ。
中略
実際のところ、「あなた」も「私」もない。「彼」も「彼女」も「弟子」も「マスター」もない。幾重にも重なった無知と幻想の層を取り除き、源に戻り、実在を明らかにするため、私たちはマスターと弟子のふりをして遊ばなければならない。
以上引用終わり
真我を探求する人は、皆すべからく同じだとは思うが、自分も若い頃から絶えず正しい本物の師匠を求めてきた。そして、今、このラマカント・マハラジの言葉が、ぴたっと腑に落ちた。そういえば、正しい師に出会わなければ、学ばない方がいいという言葉があったなと思い調べて見ると、それは道元禅師の「正師を得ざれば、学ばざるに如かず」という言葉だった。元々うちの菩提寺は、曹洞宗で親戚でもあるし、道元禅師には縁がある。太極拳と禅の師匠である山口博永老師も曹洞宗のお坊さんだったし、毎日読む経本も博永師の元で居士となった時に頂いたものだ。そういえば、博永師といっしょに中国の河南省に陳式太極拳の修行に行った時、近くにあった少林寺に行き、禅の始祖である達磨大師の面壁九年の洞窟にっも行ってきた。そして今、師と弟子という関係の中で連綿と受け継がれてきた教えの本当の意味をラマカント・マハラジの言葉の中に見出すことができた。