
再び引用してみよう。
パパジ:ここに誰か仏教徒でこの言葉についてよく知っている人がいるかね。
質問者:「真如」という言葉に加えて、仏陀は彼自身を表すために「彼方へと超えた者」(タターガタ Tathagata)という言葉も用いました。
パパジ:そうだ。その両方の意味を私は聞いたことがある。私はパーリー語を知らないため、これらの言葉に確かな注釈をつけることはできないが、「このように来るが」私の聞いたこの言葉のもう一つの訳語だ。それは「この瞬間」「この存在」を示している。
仏教徒は、「往けり往けり、彼岸に往けり」と言う。あなたは彼岸に往く、だが彼岸おも超えて行くのだ。それからあなたは、彼岸の彼方へと超えて行く。彼岸へと向かっている間は、あなたはまだ、二元性のなかに、まだ心の中にいる。方向や目的地について熟考することはできる。だが、心を終焉させるには、あなたは心の定めた目的地のさらなる「彼方の彼方へ」と超えていかなければならないのだ。
心が消え去った瞬間を示すもう一つの言葉がある。それは心が形のない彼方に消え去った後に続く「スヴァーハーswaha!」という感嘆句だ。私はこの言葉について多くの人に尋ねたが、一度も満足のいく答えを得られなかった。これが心が消えてゆく瞬間の最後の言葉、あるいは実際に心が消え去った後の言葉だ。それはなんの特定の意味を持たない。心にはその瞬間を理解し描写することができない。それゆえ、その場所から現れる言葉に、心が理解できるような意味を与えることはできないのだ。
覚醒の後言葉がある。その場所で私たちは何にしがみつけるというのだろう。智慧、悟り、解放、自由にしがみつけるというのだろうか。そこではこれらの言葉さえ役にたたない。ここではすべてが終わる。サンサーラもニルバーナも消え去った。それらは相互に関係しあって存在していたのだ。心は終わり、顕現は終わり、創造者は終わり、創造も終わった。「内に宿る」者は完全に消え去った。これが心から、終わりのない輪廻転生から、顕現からの完全な解放だ。それは一瞬にして起こる。
ギャーテー、ギャーテー、ハーラー、ギャーテー、ハラソー、ギャーテー、ボジーソワカー、
と日本語では、唱えている般若心経の真言には、こんな意味があったということがはじめてわかりました。プンジャジがいうと真理は実に簡単明瞭です。般若心経の解説書は最近たくさんでていますが、ここまで簡潔にその意味を説いた本はないように思います。それは、彼が自分の言葉で自分の体験から語ってくれているからでしょう。
もうすぐ一万回ですので、この言葉をかみしめながら唱えて行きたいと思います。