終わらない命への終活
「死ぬときぐらい好きにさせてよ」という樹木希林さんの広告が、よく行く喫茶店のトイレの壁に貼ってある。「確かこの人、がんだったよな。」と思いつつ、いつもその広告を見ていたのだが、つい先日ついに亡くなられたというニュースを見た。
その広告にはこんな言葉が書いてあった。
以下引用
「人は必ず死ぬというのに。
長生きを叶える技術ばかりが進歩して
なんとまあ死ににくい時代になったことでしょう。
死を疎むことなく、死を焦ることもなく。
ひとつひとつの欲を手放して、
身じまいをしていきたいと思うのです。
人は死ねば宇宙の塵芥。せめて美しく輝く塵になりたい。
それが、私の最後の欲なのです。」
引用終わり
「長生きを叶える技術ばかりが進歩して、なんとまあ死ににくい時代になったことでしょう。」という言葉は、長生きさせることばかりを考える医療のために、かえって、医療費ばかりが増大して社会そのものが死にかけている状況を皮肉っていて面白い。プラスとマイナスがあり、山があり谷があるのが、自然の風景であり美しいのに山々山に自然を作り変えようとするのは、自然の摂理に反しているし、文明を持続してゆくことは不可能だろう。そろそろ、その当たり前の真理に気が付いてもいいころだ。
「死ぬときぐらい好きにさせてよ」という言葉をきっかけにどこかの報道番組で、終活について取材していた。そこに遺影を亡くなる前に撮影する人たちの姿が放送されていた。でもこれってなんか違うだろうと思った。遺影がどんな物でもすでに亡くなって、この世に居ない自分に関係ないということがわからないのだろうか。これは、死後がイメージできないということの表れなのかもしれない。
今朝も、般若心経を唱えていたら、身体が熱くなって5回ぐらいでやめざるを得なかった。般若心経を唱えると身体の中心から気が湧きあがって来て、身体が熱くなり元気が出てくる。お経の内容もさることながら、自分がエネルギー体であることを実感させられる瞬間だ。それは、死後も継続して存在する命への確信に変わっていく。だから、自分の遺影を生前に撮影するよりも、毎日、般若心経を唱えることを、「終わらない命への終活」として、お勧めしたい。