言葉の背後の意味に集中する
上江洲先生の光話会に通っていていつも不思議に思うことがある。それは、多くの人がその話を録音しようとして、ICレコーダーなどの録音機を先生の近くに置いておくことだ。先生の話は、毎回違うが、言っていることは、一つで全一体、すべてが一つだということだと思う。だから、話はあまり聞かずに先生の波動を感じて瞑想をしている。まさにその言葉よりも、その背後の意味に集中している状態と言えるだろう。
ラマカント・マハリシの本の中にも同じような言葉があったので、引用してみよう。
以下引用
マハリシ:専心することがとても重要だ。ただ聞きなさい。そして、聞いたことを忘れなさい。私が伝えていること、あなたに話していること、私の言った言葉、それらの背後にある根本現理を知ろうとしなさい。
言葉を分析してはいけない。
言葉は重要ではない。
言葉の背後の意味に集中しなさい。
言葉の背後の根本現理を知ろうとしなさい。
中略
ブラフマンという名前も、「アートマン」という名も、「パラアートマン」と言う名も、「神」という名もすべて、「究極の真実」につけられた名前だ。
しかし、言葉は究極の真実ではない。
これが多くの人が犯す間違いだ。
多くの人が、こうした言葉が究極的な真実だと考える。
言葉は、究極の真実ではない。
引用終わり
上江洲先生の話というのもあまり覚えていないし、帰るころにはたいていほとんど忘れている。しかし、またすぐに行きたくなるのは、先生の放つその繊細な波動を感じ、その中で瞑想したいと思うからだ。スピリチュアルな指導者というのは、その人が何を言うかよりも、その人がどんな波動を発しているのかというのが重要になると思う。優しく癒され、深い瞑想状態に入れるような波動を発していれば、その人は本物と言えるだろう。
先生の会に来ていた人で急に来なくなってしまう人たちもいるのだが、そうした人たちは、先生の波動ではなく言葉に幻惑されてしまったのかもしれない。長く続けるためには、言葉ではなく波動を感じるだけの適度な距離感というのものが、必要なのかもしれない。また、今世界で起きている宗教による悲劇は、こうした言葉の背後にある意味を履き違えているせいなのかもしれない。