肉があるから愛おしくもあり憎らしくもある
従妹の葬送が昨日あった。葬式と言えないのは、告別式をせずに自宅からそのまま火葬場で直葬にしたからだ。こうした送り方は、初めてだったが、これもありかなと思えるものだった。自分が病気であることも周りには一切言わなかった。亡くなるほんの数日前になって、その兄弟も自分も始めて知って驚いた。あまり人と話したくないようだったので、うちのお袋と従兄弟と会いに行ったが、従妹が右手を上げたので軽く手に触れて別れを告げた。
お坊さんも呼ばないので、本当は、般若心経でも上げてやりたかったが、本人があまりそうしたことは好きではないようだったので、それも我慢した。代わりに本人が歌う歌が流されていた。お清めの時も歌が流されて、燃えるようなという歌詞を聞いて、確かに完全燃焼した人生だったのではなかったと思った。
火葬が終わり部屋に案内されると係りの人が、お骨を前にいろいろと説明をしてくれた。ついこの間まで、肉体を持って生きていた人が、こうして目の前で白く軽い骨になってしまうのは、いつも見ても衝撃的なことだ。ちょうどアメリカから彼女の孫娘が来ていたが、初めての経験でかなりショックを受けたのではないかと思う。彼女は、まだこの世の一切が空であり幻であるということも知らないし、そんなことは思いもよらないだろうから。でもこうした体験が、自分とは何かということを考える切っ掛けになるのかもしれない。
人間は、肉があるから、ある人を愛おしく想うこともあるし、また、憎らしいと感じることもあるだろう。しかし、こうして焼かれてしまえば、次の瞬間には、白く軽い骨になってしまう。在宅で最期を迎えようとしても、最後は、家族が病院に連絡してしまい救急車で病院に搬送されてしまう例がけっこう多いという話をある番組で見たことがあったが、彼女は、最後まで自宅で過ごし、従兄弟であるうちの兄に会った後に眠るように亡くなっていたという。痛みに耐え亡くなるまで自分の意志を貫いた立派な最期だったと思う。こうして永眠することで、この世の苦悩や愛憎から解放されて、永遠の命へと目覚めていくことを願うばかりだ。彼女には、まるで姉のようにいろいろと面倒を見てくれてありがとうと伝えたい。