己を以って主とす、他に何ぞ主あらんや

今日行った馴染みのお米屋さんで、占いの話になった。よく来るお客さんの中にも、そうしたものを信じている人がいて、神のように崇めている人もいるという。中には、霊を一体とると3万円とか言われ15万円も払った人もいるという話もしていた。まあ、何を信じるかはその人次第だが、まず初めに信じなければいけないのは、己自信でなければならないようだ。そうしないで、人に依存すると大変なことになる。

「自己なき自己」の本の中でも、同じような話が語られている。もっともここに語られているアンマは、世界中をハグをして回っているインド人の女性の聖者で、本物であり、けっしてお金を巻き上げるような人ではないが、それでもそうした聖者にハグをしてもらい祝福を受けに行くことに意味があるのかどうかということについて語っている。

以下引用

質問者:私はここにあまり長くはいられないと思います。というのも、マザー・アンマに会いに行きたいのです。

マハラジ:マザー・アンマのところで幸せを得られると思うなら、そこへ行きなさい。私は、あなたがすることを規制したりしない。もし、あなたがここで幸せでないなら、どこにでも自由に行きなさい。しかし、アンマに会って得られるのは、別の種類の知識だ。あなたは身体形態の中に、身体形態の幸せを探ろうとしている。

私たちの系譜では、あなたの目に見えぬ実在に、直接的知識を与える。あなたの身体形態に与えるのではない。それは、あなたのアイデンティティではないのだから。

(小略)どこにでも、行きたいところに行きなさい。しかし、あなたはそこにとどまらなければならない。あるマスターのところで平安を見つけたら、そのマスターのもとにとどまりなさい。

中略

質問者:ダルシャンを受けに誰かに会いに行くことが、なぜあまりいいいことではないのか、説明してください。

マハラジ:誰がダルシャンを欲しているのか?あなた自信のダルシャンを受けなさい!自分自身にダルシャンを与えなさい。

あなたがいなければ、ダルシャンもない。

「アンマ」と言うには、あなたの臨在が必要だ。「神」と言うには、あなたの臨在が必要だ。あなたがアンマの父、アンマの母だ。あなたの臨在がなければ、あなたはアンマに会うこともできない。なぜなら、全世界はあなたから投影されているからだ。

中略

すべての神や女神は、あなたの中にある。全世界があなたの自発的な投影だ。

以上引用終わり

たぶん同じアンマだと思うが、自分自身毎年アンマが日本に来ると10年近くダルシャンを受けに東京に通っていた。そして、最後は、インドのアシュラムにまで行ってきた。このブログにも以前はアンマの言葉をその本の中から、ずいぶん引用していた。そして、インドのアンマのアシュラムに滞在していた時のことアンマが小さな聖堂でダルシャンをしている時に、その奥にある大聖堂で、一人で座って瞑想していたら、その舞台から巨大なエネルギーが吹き寄せてきたのを感じた。その時にアンマという存在は、その肉体ではなくあらゆる空間に遍在しているのだなとわかった。

そして、その遍在する巨大なエネルギーこそ、自分の本当の姿だとマハラジは言っているのだろうか。それなら合点がゆく。しかも、それはアンマとインドのエネルギーではなく(今までそう思っていたのだが)、自分自身の本来の姿の投影でしかないと言っているようだ。

若い時から、初めは山口博永老師について禅と太極拳を習い、次にアンマのダルシャンに参加して、今、上江洲先生の光話会に参加しているが、自分の根本に響いているのは、「己を以って主とす、他に何ぞ主あらんや」という禅の言葉だ。そして、今回、ラマカント・マハラジの「自己なき自己」という本に出会ったことで、その意味が明らかにされている。この本との出合いは、単なる偶然ではなく、それぞれの時代に応じて、正しい師匠に出会い適切に導かれてきた結果なのかもしれない。

皆さんも、素晴らしい本なので、縁のある方は、ぜひ一度読んでみてください。

 

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