賢者は、己の無知未熟さを知り、愚者はそれを知らない。
先日治療していると、若いうちは職場で言いたいことを言っていたが、最近は、年下の上司に対して言いたいことはあるのだが、言っても先が見えるのであえて言わなくなったという話を聞いた。それが少しづつたまってストレスになっているのかもしれないと。あえて言わないのは、年をとりいろいろな経験を積むことで、世の中にはいろいろな人がいていろいろな立場があるということを理解できるようになってきたからとも言えるだろう。それがわからずに未熟なことを言ってしまうのが、若さの特権でもあるのだろうが。
自分の経験も知識も少ないということがわかれば、それは大人になったという証だが、その認識もなくいつまでも狭量な考えを押しつけてくる者がいれば、それは周りにストレスを与えることになる。特にそれが職場の上司で、毎日、顔を付き合わせなければならなければ、毎日が憂鬱で会社に行くのが億劫になり、精神的にまいって病気になってもおかしくない。だから、いつまでたっても、職場でのうつやパニック、自殺というものが絶えないのだろう。
傷つけられた心には悲しみが溜まっている
誰も見ることのない涙の海が心の中に広がっている
一時的に怒ってみてもその悲しみがなくなることはなく
無防備な心に突き刺さった刃がいつまでも心を痛みつけ涙の海は消えることはない
なんだかコブクロの歌の歌詞みたいになってしまったが、結局、我々は日々傷つけられながら、なんとかそれを修復して毎日働いているのだろう。しかし、そうした心の傷が身体や精神に現れしだいに病んでいく。では、どうすればこの傷を癒やすことができるのだろうか。心に中に光りのエネルギーがわき上がる時、心の傷は癒え涙の海は昇華されて消えてゆく。そのために意識の焦点をハートと脳の中心に合わせて、泉のごとく生命エネルギーがわき上がるのを待つのだ。雑念が消え無心になるにつれて、心の中の光とエネルギーがますます強くなり、喜びへと変わってゆく。
その患者さんが、「生きてるってことは、いつまでたっても大変で耐えがたいものなんですかね。」と言った時に、ラマカント・マハラジの言葉を思い出し、ぜひ紹介しようと思った。それは、「幸福と平安は体のためのものだ。なぜなら、身体形態として存在することは耐えがたいからだ。」という言葉だ。この言葉だけでも知っていれば、浅はかな知識の押しつけで人を傷つける人もいなくなるのだろうが。