葬儀のおとき(斎)話
人が亡くなり死を悼むための葬儀が、なぜか不満や怒りに満ちてしまうということがままあるようだ。そういえば、伊丹重蔵監督の「お葬式」なんて映画もあった。突然のことだし、初めてのことだし、家族は慌ててしまい何をしていいのかわからないのだから、不満が残ってもしかたないことなのかもしれない。結局、葬儀屋さんの提案する案から、選ぶだけになってしまう。
この間の従妹の葬式では、直葬でお坊さんを呼ばなかったので、さほど問題は無いはずだったが、唯一、火葬している時のお清めの弁当が足りずに、旦那さんの親戚の方が3人食事をとれずにいたのがかわいそうだった。そういえば、うちの父親の葬儀の時も予定外の人たちが残ってしまったので、弁当が足りず自分とお袋は、親戚に分けてもらって食べたのを思い出した。習慣が違う国の人やその若い友達たちでは、こちらの事情がわからなくても無理も無いのだが、一番疲れているお袋に食事の用意ができなかったのは辛かった。
話は違うが、そういえば、通夜の後の食事は、お清めでいいのだが、火葬している時の食事は、お斎(とき)というのだそうだ。こうしたことはよくあることのようなので、お斎の食事もオードブルで誰が参加してもいいようにした方がいいようだ。そうすれば、どなたが残ってくれても感謝こそすれ、施主やその親戚が食事を取れないということもなくなる。では、お斎の食事は弁当だと誰が決めたのか、それは葬儀屋と斎場なのかもしれない。しかもそのことは、すでに形式化してパターン化している。この形式化とパターン化が、葬式がもめる原因の一つなのかもしれない。もっと、自由で心をこめて故人を見送ることができれば、それが一番いいのではないだろうか。しかも、その後の法事なども遺族や親族にとっては、けっこう負担だ。父親と母親を続けて正月に亡くした別の従妹の家は、4年続けて葬式と法事をする羽目になっていた。
死んでから戒名をあげたり、葬式や法事にお経をあげるのではなく、生きているうちにこそお経を教えて唱えるように指導した方がいいのではないだろうか。一切が空で、生まれることも無く死ぬこともないのが、私たちの本質であるなら、その仏の本質を説いて体験できるよう指導して欲しいものだ。そうすれば、葬儀や法事で悩んだり親戚と揉めたりすることもなく,安心して死者を送り出すことができるのではないだろうか。