たたみかける般若波羅蜜多
般若心経を声にだして読んでいて気付いたのだが、後半に「般若波羅蜜多」という言葉が、たたみかけるように入っているということだ。そこでネットでこの言葉を調べてみた所、こんな記述を見つけた。
以下引用
さて、そうした菩薩たちが大乗のスローガンとしたのが「般若波羅蜜多」でした。彼らはこの言葉を拠り所とし、この言葉のもとに集結し、この言葉によって瞑想し、あるいは祈り、この言葉にこめられた理想(「智慧の完成」)を追求したのです。
ここで最初に舎利子に観自在菩薩に問うたことを思い出してください。一体あなたの得たヴィジョンとはどのようなものなのか─。
心経「大本」の「序」によると、これが舎利子の第一の質問でした。それは驚くべき「諸法のヴィジョン」として、すでに明らかにされました。第二の質問は、そのヴィジョンを得る手段は何か、です。
今が、その問いに観自在菩薩が答えようとしている場面なのです。「われわれ菩薩(複数形)の般若波羅蜜多に依るが故に」と。
膨大な大蔵経(仏典)の中で最大規模を誇る「般若経」(玄奘訳の正式名称は「大般若波羅蜜多経」)の主題(テーマ)は、その経題名が示すとおり、「般若波羅蜜多」です。般若心経もまったく同様で、般若心経とはどういうお経かといいますと、「般若波羅蜜多を説くお経」以外の何物でもありません。
観自在菩薩がすべての菩薩を代表して、大乗仏教の「祈りの言葉(マントラ)」としての般若波羅蜜多を宣揚したお経が般若心経なのです。
以下引用終わり (引用元空海アカデミー )
これを読むと「般若波羅蜜多」自体がマントラであると書いてある。それで納得した。今までは、最後のギャーテイから始まる部分だけが、マントラだと思っていたが、般若波羅蜜多という言葉自体がマントラだと思えば、後半になってたたみかけるようにこの言葉がでてくるのも理解できる。
日本語で般若心経を読むと畳み込み高めることができるが、サンスクリット語だとまたぜんぜん違った趣がある。どちらが正解というわけではなく、それぞれの国の言葉に変わったとしても、同じようにその本質は失われていないのだと思う。