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覚え易い般若心経解説2

今日は、般若心経の後半を解説してみたいと思います。後半の中心になる言葉は、般若波羅蜜多という言葉です。般若とは、智慧、波羅蜜多とは彼岸に至るということなので智慧の完成とか言われてますが、これは覚醒した深い意識の状態と言えると思います。①の般若波羅蜜多に次く心無罣礙礙は、罣は「障り」礙は「妨げ」なので「何かにこだわりひっかかっている」ことだそうで、日常的によくあることです。仕事でつまずいたり、夫婦や親子喧嘩をしたり、友人ともめたり、次から次へといろいろなことがおきて、いつも何かが心にひっかかっているのではないでしょうか。そんな心配も覚醒した深い意識の状態では、まったく気にならず心にひっかかることがなにもないということ。無罣礙故 無有恐怖は、心に引っかかるものがないので、恐れるものもない。だから、遠離一切顚倒夢想で、一切の倒錯した夢の世界、すなわちこの世から遠く離れている。そして、究竟涅槃で、この世の輪廻の輪から解放されて完全な静寂の世界へと帰ってゆく。

だから、三世諸仏、つまり過去、現在、未来の仏は、この②般若波羅蜜多によって、阿耨多羅三藐三菩提を得る。阿耨多羅三藐三菩提とは、サンスクリット語の音写のようで、最もすぐれた正しい知識の意味だそうで、生死の迷いを去って、一切の真理を悟った、仏の完全な悟りの意味で、無上正覚とも言うそうです。

そして、③般若波羅蜜多の後に、この大神呪であり、大明呪であり、無上呪であり、無等等呪であり、能除一切苦であり、真実不虚の言葉が続きます。呪とは、呪いの言葉ではなく、真言、マントラのことです。故知とその前にありますので、故に知るべし般若波羅蜜多は、偉大な神の真言であり、それが明らかなもんであり、最高のものであり、他に比べようが無く一切の苦を取り除くこができて、嘘のない真の言葉だという。

そして、最後に、④般若波羅蜜多に即説呪曰で、具体的なマントラを説いている。
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶
このマントラは、サンスクリット語の音写でしょうから、その意味よりもこの音を唱えて体に響かせることに意味があるのでしょう。念のためだいたいの意味を調べて見ると、羯諦は行く、波羅は向うへということで彼岸、僧羯諦は到達するという意味があり、菩提娑婆訶の菩提は仏の悟りを、娑婆訶は成就するという意味があるそうです。
ちなみにサンスクリット語では

「gate gate para-gate para-sam-gate bodhi svaha」
 「ガテーガテー パーラガテー パーラサンガテー ボジスヴァハ」

と発音するようです。

後半は、般若波羅蜜多を中心に4つのブロックに分けられました。こうすれば、だいぶ覚え易いのではないでしょうか。般若心経をサンスクリット語で唱えている人もいるでしょうか。自分は、最後が母音で終わる日本語が、ゴ~ンと鳴る鐘の響きのように身体に響かせることができるのでいいではないかと思っています。意味よりも響きによって瞑想状態に入り、般若波羅蜜多の意識の状態に近づいていくことが大切だと思います。逆境にある時は、本当に苦しいですが、その苦しさを逆手にとって、集中して真剣に唱えれば、かえって修行も進み、深く入り真理に気づくチャンスになるかもしれません。少なくとも意識の深い所にアクセスすることで、周りの状況を好転させる可能性もあります。

以上で覚え易い般若心経を終えますが、一人でも多くの人がこれを機会に覚え、暗誦できるようになれば幸いです。

覚え易い般若心経の解説1

般若心経の読誦を進めていたら、なかなか覚えられないという声を聞いたので覚え易く解説してみたいと思います。今日は、前半部分、観自在菩薩から以無所得故までの解説をしたいと思います。一番言いたいことが一番初めに語られています。「観自在菩薩 行深 般若波羅蜜多 時 照見 五蘊皆空 度 一切 苦厄」つまり「観自在菩薩が、深い瞑想状態に入った時に、この一切は空であると照らすように見切って、一切の苦悩や災難から解放された。」ということ。後は、この文章の内容を解説しています。

五蘊とは、色、受、想、行、識のことです。色は、肉体や物質という意味でしょうか。舎利子1で言っているのは、肉体のことでしょうか。肉体は、空間には違いが無く、空間も肉体に異ならない、すなわち、肉体は一瞬で空になるし、空は一瞬で物質化する。受、想、行、識の精神作用にも同じことが言える。

そして、舎利子2で、そのことは、この世の様々の法則についても同じように言えると拡大して説明しています。すべての法則が、空相なのだから、生まれることもないし滅するということもないし、汚れることもなければ浄化されるともない、増えることもなければ減ることもない。つまり海の表面は、波があり絶えず変化しいるが、その海底はなんの変化もなく絶えず静まりかえっているということでしょうか。

無色無受想行識は、肉体も精神作用もないのだから、それを受けとる眼や耳や鼻や舌や身体や意識という感覚器官もないし、感覚器官がないのだから、色や声や香りや味覚や触覚や法則もないのに等しい。それがないということは、眼の前にある世界も幻想であり、意識というものも存在していない。したがって、無知ということもないし、それがなくなることもない。また、老いて死ぬということもないし、それが無くなることもない。だから、苦諦(くたい)迷いのこの世は一切が(ドゥッカ)であるということもなければ、集諦(じったい)苦の原因は、むさぼり求める執着であるという認識もなく、滅諦(めったい)執着を断つことで苦しみを滅した悟りの境地を求めることもないし、道諦(どうたい)そのためには八正道によるべきであるということもないと言い。智慧もなければ、それを得るということもないと説いている。

つまりは、すべてが幻想だと言っている。ここまでが、前半の部分です。これでその意味が分かり覚え易くなったでしょうか。つまり、「五蘊皆空 度 一切 苦厄」の意味を解説している訳です。

「自己なき自己」の本の中で、ラマカント・マハラシが、これらのことを分かり易く解説してくれているので、また、引用してみよましょう。

以下引用

マハラジ:私たちは、空をさまざまな壁の中に閉じ込める。寺、台所、トイレ。同じことを、国でもしている。「これはオーストラリア、これはインド」等々。私たちは、こういう壁を、想像によって作り上げた。この人たちは、インド人、あの人たちはオーストラリア人、だれが区別しているのだろう。私はそういう意味で言っているのだ。

だから、自分は身体ではないという確信を持たねばならない。ある程度のときが過ぎたら、あなたは身体に「バイアイ」をしなければならいない。しかし、あなたの臨在に別れを告げることは決してない。空は空であり、今までも空だったし、これからも空だ。そして、あなたは空よりも霊妙で神秘的だ。家は、壊れるが空は壊れたりするだろうか。?

これはとても大切なことだ。あなたを見なさい。そして、この世界がどのように投影されているか確かめなさい。

中略

真剣に考えなさい!深く、深く、深く、自己なき自己の中に入っていきなさい。スピリチュアリティの秘密のすべては、あなたの中に隠されている。あなたがそれを明けねばならない。もちろん、強力な専心と信頼が必要だ。あなたに対する信頼が必要だ。

以上引用終わり

般若心経を繰り返し繰り返し唱えるのも、自分が身体ではないという確信を得るためです。すべての苦しみの原因が、自分と肉体を同一視することから始まっていると説かれています。自分を空と観(感)じることができるようになって、初めてこの世の一切の苦しみから解放されるのでしょう。

 

葬儀のおとき(斎)話

人が亡くなり死を悼むための葬儀が、なぜか不満や怒りに満ちてしまうということがままあるようだ。そういえば、伊丹重蔵監督の「お葬式」なんて映画もあった。突然のことだし、初めてのことだし、家族は慌ててしまい何をしていいのかわからないのだから、不満が残ってもしかたないことなのかもしれない。結局、葬儀屋さんの提案する案から、選ぶだけになってしまう。

この間の従妹の葬式では、直葬でお坊さんを呼ばなかったので、さほど問題は無いはずだったが、唯一、火葬している時のお清めの弁当が足りずに、旦那さんの親戚の方が3人食事をとれずにいたのがかわいそうだった。そういえば、うちの父親の葬儀の時も予定外の人たちが残ってしまったので、弁当が足りず自分とお袋は、親戚に分けてもらって食べたのを思い出した。習慣が違う国の人やその若い友達たちでは、こちらの事情がわからなくても無理も無いのだが、一番疲れているお袋に食事の用意ができなかったのは辛かった。

話は違うが、そういえば、通夜の後の食事は、お清めでいいのだが、火葬している時の食事は、お斎(とき)というのだそうだ。こうしたことはよくあることのようなので、お斎の食事もオードブルで誰が参加してもいいようにした方がいいようだ。そうすれば、どなたが残ってくれても感謝こそすれ、施主やその親戚が食事を取れないということもなくなる。では、お斎の食事は弁当だと誰が決めたのか、それは葬儀屋と斎場なのかもしれない。しかもそのことは、すでに形式化してパターン化している。この形式化とパターン化が、葬式がもめる原因の一つなのかもしれない。もっと、自由で心をこめて故人を見送ることができれば、それが一番いいのではないだろうか。しかも、その後の法事なども遺族や親族にとっては、けっこう負担だ。父親と母親を続けて正月に亡くした別の従妹の家は、4年続けて葬式と法事をする羽目になっていた。

死んでから戒名をあげたり、葬式や法事にお経をあげるのではなく、生きているうちにこそお経を教えて唱えるように指導した方がいいのではないだろうか。一切が空で、生まれることも無く死ぬこともないのが、私たちの本質であるなら、その仏の本質を説いて体験できるよう指導して欲しいものだ。そうすれば、葬儀や法事で悩んだり親戚と揉めたりすることもなく,安心して死者を送り出すことができるのではないだろうか。

決算忠臣蔵と数字のお化け

この間の日曜日、子供と決算忠臣蔵という映画を見に行ってきた。当時は、忠義と称えられた行動を金と数字でしか理解できなくなってしまたことに違和感を覚えた。人生100年時代とか言われて自分の老後を心配する現代の日本人に、自分で自分の腹を切る覚悟と胆力をこんな風に茶化す資格はないと思う。そうとうの覚悟がなければ、切腹などできないことだし。今の人たちは、当時の人と違って完全に数字に支配されてしまっているのかもしれない。

そういえば、昨日来た患者さんも会社で、何かにつけて数値化して提出しろといわれても数値化でないものもあるので困ったいると言っていた。数値化できないものの中にこそ、仕事に対する喜び、誇り、夢がつまっているのではないだろうか。効率ばかり求めても誰も幸せにはなれない。社会や人も目的は、幸せになることだとすれば、今の社会のシステムはそれに逆行している。つまりは、病気と不幸の大量生産をしているということになるのではないだろうか。

つまりは、今の資本主義のシステムそのものが間違っているから、こうして苦しみが増し、自殺する人も減らないのだろう。決算がせまるたびに冷やせがでて数字のお化けにうなされている人たちも大勢いるものと思う。こんなシステムが維持されているのも、自分たちのこの世に対する認識が間違っているからだ。金や物、肉体に対する執着が、様々な苦しみの元になっている。一人一人がその間違いに気づき、この世への執着から解放されてゆけば、世の中のシステムも徐々に変わってゆくだろう。

般若心経百万会は、瞑想では数値化できない喜びを皆で般若心経を唱えることで体感してゆこうという会だ。元より単に回数を増やすことが目的ではなく、読経することで悩みや不安を解消し、さらに進んで喜びや覚醒に至ることが目的だ。一応回数は数えるが、それは数字のお化けから解放してくれる数字だ。普段の生活の中で不安や怒り、ストレスに押しつぶされそうになったら、思い切り声をだして唱えるといい。その声が一人二人と増えてゆけば、やがて社会を変革する大合唱になるのではないかと思う。

 

 

 

 

心のかさぶたをはがさないで!

一昨日、アマゾンプライムビデオで「アフターマス」というアーノルド・シュワルツネッガー主演の映画を観た。内容は、管制官のミスで起きた飛行機事故で家族を失った男の物語だ。結局、彼は自分の怒りを抑えられずにその管制官の所に押しかけて殺してしまう。彼の心は、大切な家族を失ったという喪失感で壊れてしまった。そして、怒りがいつまでも心の中にくすぶり続けた。頭では、しかたないことだと理解できても感情的には許せなかった。こうした痛ましい事故は、日本でも今年の春にあった交通事故のように、日常的に起こっている。ただ日本人は、抑制が効いているので、直接相手に復讐するというケースは少ないだけだ。

事故事件以外でも親しい人の死や病などでも、心に穴が開いたように苦しむことがある。そして、治る過程である程度時間が経つと傷ついた心にかさぶたのようなものができてくる。心理療法やセラピーの中には、心にフォーカスしてそのかさぶたを外すものもあるだろう。しかし、そのかさぶたを外すことで、一気に心の問題が吹き出てしまいかえって大変な状態になることもあるのではないだろうか。自分としては、そのかさぶたを無理やりはがさずに外傷の時と同じように傷が癒えて内側から肉が上がって自然にかさぶたが剥がれ落ちるように心の傷が内側から自然に治るのを待つ方がいいと思う。

そして、般若心経とは、まさに心の傷を癒す教えなでので、それを唱えることで癒す方がいいと思う。この世そのものが、空であり幻想であると確信して実感として納得してゆくことで心の傷も癒えてゆく。心にフォーカスするのではなく、自分を含めこの世そのものが存在しないということに気がつけば、その中に含まれる心の傷や心そのものが存在しないことになる。意識のファーカスをもっと深い生命エネルギーの中心に持っていけば、そこからのエネルギーをもらうことができて、自然と心の傷も癒えて消えてゆく。

 

時間に追われるのか、時間を忘れるのか。

急がしいタイムスケジュールの中で生きている人は、いつも何かせわしなく何かにせっつかれていると感じながら生きているのかもしれない。そういえば、以前にはそうした感覚の中で息をしてたことがあったような気がする。しかし、最近は、時間に対するこだわりが消えてきた。それは、仕事と金との結びつきを意識しなくなってきたことと関係しているのかもしれない。

先日も治療の後、患者さんから代金をもらったかどうか分からなくなってしまったことがあった。治療の流れの中で、こうしたことはたまに起こってしまうのだが、結局、そのことを患者さんい言い出せずそのままになってしまった。自分の記憶も曖昧になってきているので、なかなかはっきりしたことがわからないが、こうした時は、目に記憶装置がついていればいいのにと思う。再生すればすぐに事実が判明するのだから。しかし、それも叶わないので、そのまま放置していたら、その週末に来た別の患者さんが、いつもお世話になるのでと余分においていってくれた。一見、その時は損失のように見えても、大きな流れの中では、ちゃんとどこかで補われるようになっているのだと感心する。

自分の仕事は、患者さんを癒すことにあるので、あまり他のことは意識する必要がないということだろう。人は、若いうちは自分が何でもやっていると勘違いすることが多いが、実際は大きな流れの中で流されているに過ぎない。それはちょうど流れる川の中で泳いでいるようなものだ。そんな大きな流れに気がつき、流れに身を任せて生きることができるようになってくると時間に追われることもなくなり、しだいに時間を忘れて仕事ができるようになってくる。今の時代は、時給を上げることがばかりに正義があると勘違いしているが、実際は、何時間働こうと熱中して時間を忘れるように仕事がでいきる方が、はるかに大切なのではないかと思う。

 

怒りのエネルギーのコントロール

怒りとは、感情のエネルギーである。おそらくそれは、自分の肉体あるいは精神を傷つけられた時に、防衛反応として現れる感情だ。だから、当然、怒りの感情が起こる前には、自分の肉体あるいは精神への侵害がある、あるいはあったと本人は感じている。そして、怒りにも二種類あるのかもしれない。一つは、相手の言葉が、自分を批判あるいは侮辱したと感じて、怒り心頭に発するという言葉に表されるような心臓に怒りのエネルギーが溜まり頭に抜ける場合と、相手の行為によって、自分が傷つけられ裏切られたと感じた時に感じる、はらわたが煮えくり返るようなという表現される内臓からくるような怒りである。こうした怒りの時には、背中の腎の辺りが痛くなることがある。それは、副腎からアドレナリンが大量にでるが、それを抑えようとして起こるのかもしれない。

この間、久しぶりに怒りのエネルギーが一気に心臓の中に集まるのを感じたできごとがあった。そのエネルギーは、そのまますぐにも頭に到達し爆発しそうになったが、なんとか抑えた。問題は、ここからでその抑えたエネルギーをどう解消していくかが問題になる。下手に抑えるとそのエネルギーが、自分自身を攻撃し始めて、自分の心や身体を蝕みだし、悲しみや無気力、だるさに繋がったり、パニック障害になったり、心臓の痛みを感じるようになる。大雨で急激に増水した川の水のような怒りをどうすればいいのか。それには、心の遊水地を作ってそちらに流すことが有効だと思う。つまり、怒りで溜まった感情のエネルギーを他へ向けるということだ。

自分の場合は、いつもより集中して般若心経を唱えることで解消した。少し時間がかかったが、今では、すっかり元の小川のようになりさらさらと心のエネルギーが流れている。そして、両手を開くき手の平に意識をむけるだけで、心臓から力強い生命エネルギーが両手の平にわき上がってくる。このエネルギーは、気功指圧で日々、人を傷つけるのではなく、人を癒すために使われている。まあ、人間だもので、怒りを爆発させてしまうこともあるだろうが、できる限りそのエネルギーをコントロールして、いい方向に向かわることができればと思う。

 

般若心経百万会

山のように溜まった樹の枝を一本一本に切り分けてダンボールの箱に収める地道な作業をここ何日か行った。その一房の枝からがさばらないように短い真っ直ぐな枝に切り分ける作業の時に般若心経を唱えていた。先週の土曜日は、午前中2,3時間唱え、午後仕事の後、日が暮れるまで1時間ぐらい唱えた。まださほど寒い時期でもないのに外での作業は、体が冷えるようで下っ腹にガスが溜まり苦しくなった。そして、日が暮れると終わりにしたが、一回唱えるのに2分ぐらいかかるので、後で計算してだいたい90回ぐらい唱えたのだとわかった。

その時にふと思いついたのだが、現在、1万7千100回唱えているが、これでは、10万回唱えるのも大分時間がかかってしまう。だから、「皆で百万回唱えたらどうだろう。」個人では、たいしたことも達成でいないが、皆の力を借りれば、不可能も可能にできる。また、自分だけでなく、たくさんの人に般若心経を唱える喜びも共有してもらえる。そこで、般若心経百万会を作って、少しづつ縁ある人に声をかけることにした。今の所、二人の患者さんが、気持ちよく参加してくれた。

普通、マントラは、師匠から弟子へ秘密の教えとして授けられるようだが、般若心経は公開されただれでも唱えることのできる素晴らしいお経(マントラ)だと思う。

そのマントラについて「自己なき自己」に素晴らしい話が語られているので、また、引用してみようと思う。

以下引用

マハラジ:私が言ったことは覚えておき、修業しなさい。あなたは理論的には理解しているし、知っている。しかし、この真の知識を実際に利用し、そのように生きなければならない。マントラを唱えたり、バジャンを行えば、それらが深く浸透し、そのヴァイブレーションによって、すべての幻想の想念が消える。

私はあなたを確信させようとしている。あなたも自分自身を確信させなければならない。

私は体ではないと自分自身に確信させなさい。そうすれば恐れがなくなり、いかなる問題にも全力で取り組む準備ができる。責任と家族への義務を怠ってはならない。幸せな人生を送りなさい!読んだことを実行しなさい。理論的な知識では十分ではない。瞑想して自分の内なる声を聞きなさい。

シンプルでありなさい。そして、自分自身を本当の意味で知りなさい。

バウサヒブ・マハラジの遺体が火葬されたとき、彼の骨からナーム・マントラが聞こえたという人たちがいた。ナーム・マントラが骨から聞こえてきたのだ。ナーム・マントラは彼の全身と一つになっていた。全身がそして体の各部分が、自発的にマントラを奏でていたのだ。

すべての奇跡は、ただあなたゆえに起きる。あなたの中だけで、

この真の知識を実際に実行し、体のすべての部分に吸収すれば、あなたの肉体的なアイデンティティはただ消えてしまうだろう。

以上引用終わり

考えてみれば、こうして山のように積みあがった枝は、自分たちの煩悩や悩み苦しみなど鬱積した感情の山とも言える。そうした想いを一つづつ小枝に分けるように般若心経を唱えながら分離し引き剥がしながら捨ててゆき、最期は焼いて昇華することができれば、我々の悩みも解消し、毎日を晴れ晴れした気持ちで生きてゆくことができる。

この世が一切空であるという確信は、そう簡単には持てないが、日々、マハラジのようにマントラや般若心経を唱え続けることによって、全身にそのヴァイブレーションを響かせることで、体の奥の骨まで届けば、しだいに肉体やこの世に対する執着は消えて苦しみや災厄からも解放されてゆく。

般若心経を百万回唱えることを皆で目指すことで、一人ではなく大勢でヴァイブレーションを起こし、その波動を周囲に広げてゆけば、地域全体が目覚め救われてゆくこともできるのではないだろうか。これからも今まで同様、自分でも唱え続けるが、周りの縁のある方にも声をかけて、しだいにその輪を広げて行けたらと思う。

 

 

肉があるから愛おしくもあり憎らしくもある

従妹の葬送が昨日あった。葬式と言えないのは、告別式をせずに自宅からそのまま火葬場で直葬にしたからだ。こうした送り方は、初めてだったが、これもありかなと思えるものだった。自分が病気であることも周りには一切言わなかった。亡くなるほんの数日前になって、その兄弟も自分も始めて知って驚いた。あまり人と話したくないようだったので、うちのお袋と従兄弟と会いに行ったが、従妹が右手を上げたので軽く手に触れて別れを告げた。

お坊さんも呼ばないので、本当は、般若心経でも上げてやりたかったが、本人があまりそうしたことは好きではないようだったので、それも我慢した。代わりに本人が歌う歌が流されていた。お清めの時も歌が流されて、燃えるようなという歌詞を聞いて、確かに完全燃焼した人生だったのではなかったと思った。

火葬が終わり部屋に案内されると係りの人が、お骨を前にいろいろと説明をしてくれた。ついこの間まで、肉体を持って生きていた人が、こうして目の前で白く軽い骨になってしまうのは、いつも見ても衝撃的なことだ。ちょうどアメリカから彼女の孫娘が来ていたが、初めての経験でかなりショックを受けたのではないかと思う。彼女は、まだこの世の一切が空であり幻であるということも知らないし、そんなことは思いもよらないだろうから。でもこうした体験が、自分とは何かということを考える切っ掛けになるのかもしれない。

人間は、肉があるから、ある人を愛おしく想うこともあるし、また、憎らしいと感じることもあるだろう。しかし、こうして焼かれてしまえば、次の瞬間には、白く軽い骨になってしまう。在宅で最期を迎えようとしても、最後は、家族が病院に連絡してしまい救急車で病院に搬送されてしまう例がけっこう多いという話をある番組で見たことがあったが、彼女は、最後まで自宅で過ごし、従兄弟であるうちの兄に会った後に眠るように亡くなっていたという。痛みに耐え亡くなるまで自分の意志を貫いた立派な最期だったと思う。こうして永眠することで、この世の苦悩や愛憎から解放されて、永遠の命へと目覚めていくことを願うばかりだ。彼女には、まるで姉のようにいろいろと面倒を見てくれてありがとうと伝えたい。

心労による背中の心臓の裏の痛み

昨日来た患者さん、背骨の心臓の裏辺りの奥が痛むと言う。その辺りは、胸椎の3番4番の間に身柱、5番6番の間に神道というツボがある。神道の左右には心兪というツボがあり、心臓の反応がでるエリアだ。その患者さんは、この秋に公私ともに忙しいことが重なって、心臓も疲れたのだと思う。また、同じような症状で苦しんでいる患者さんもいるので、この所の急激な冷えも体にきいていると思う。

元々精神的なショックがあると心臓の周りの気のバリアーが壊れて、心臓の辺りが痛くなる。気功指圧や気功を練習してもらったり、般若心経を読むことでだんだんそのバリアーが修復され、回復してきても、今回のように雨ばかりで湿気が多く、寝汗をかくが朝冷えてくる季節は、体に冷えが入り体調を崩し易い。

体に冷えが入ると腹部にガスが溜まり、その気が上昇して下から、胃や心臓を圧迫するので、胸の辺りが苦しくなり食欲もなくなってしまう。そして、体はだるく精神的にも不安定になってしまう。

こうした時、気功指圧で患者さんのお腹に手を当ててじっくりと気を入れてゆくと、内臓が温まって動きだし、お腹の張りもほぐれ柔らかくなり、体も温まってゆく。そして、下から突き上げも減って、心臓への圧迫も取れてゆく。

そして、施術が終わった後は、両腕を水平に広げ、肘を45度の角度で斜め後方に引いて曲げ、顎を引いて首の後ろの頭骨と首の付け根を広げる動きを教えた。こうすることで胸が開き、心臓への圧迫が取れて、脳が下に引っ張られることで脳幹や間脳などの脳の中心に刺激が入り、ホルモンと自律神経の調整ができる。簡単な動きだが、効果的だ。

最近は、秋になっても雨ばかりで、すがすがしいさわやかな季節ではなくなってしまった。おまけに水害まで起きて、たくさんの人が苦しんでいる。こうして外の気象が狂へば、内なる気象も狂うので、体調が悪くなる人も多いと思うので、せめて胸を開く体操をすることで、心臓への負担を少しでも減らしてもらえればと思う。