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気と気をつなぐことで絆が生まれる

今日は久しぶりに湿度が低く気持ちよく気功を教えることができた。新しい気功の生徒さんも入ってくれて、すべてがフレッシュに感じた。「青い海」の気功を新しい生徒さんにも分かり易いように、順を追って丁寧に解説しながら、教えていった。今度の生徒さんは、治療にも通ってくれていて瞑想にも興味があるのだが、座ると雑念が湧いてきてしまいなかなかうまくいかないという話だった。そこで「だれでもただ座るのは難しい、でも動きながら瞑想状態に入るのは優しいので、「青い海」の気功で海の中でクジラになって泳いでいるようなイメージで動いていると自然と瞑想状態に入っていくことができますよ」と説明していた。

実際に動きだしてみると自然と身体が動き、無理なく皆の動きについてきていた。気功でイメージの中で身体を動かす気持ちよさもわかってくれているようだった。8月から参加してくれている生徒さんも、だんだん動きに慣れてきているようだった。気功の動きを覚えて、イメージの世界で遊べるようになればなるほど、その気持ちよさをますます深く味わうことができるようになってくるので、先が楽しみだ。

「青い海」の最後は、皆で輪になって、お互いに気を送り合うのだが、その時に「気と気をつないで絆を作るように動いてください」と言った。自分で言って改めて気づいたのだが、文字道理、生命エネルギーである「気と気」を繋ぐことで「絆」は生まれるのだろう。最近、気功教室も停滞ぎみだったが、新たな生徒さんたちの参加で新しい絆が生まれ発展して行きそうな気配を感じる。

 

 

マスターとは

往診の帰りいつもの場所で、赤城を撮影した。今日は、うだるような暑さで、水沢の近くでも、夏が舞い戻って来た様に暑かった。この湿気と暑さで、また体調を崩している人も多いのではないかと思う。そんな中、上の写真にあるように夏まきの蕎麦の苗は、順調に育ち、その緑を増していた。

家に帰って昼食の後、また、「自己なき自己」を読み進めた。そして、どうしても引用したい文にまた出くわした。

以下引用

マハラジ:毎日、私は同じことを繰り返し、皆に同じことを言っている。「私の言葉を文字通り受け取ってはいけない」と。マスターが伝えようとしていること、そのエッセンス、意味、要点が重要なのだ。私たちは議論するためにここにいるのではない。語られた言葉を正確に研究するためでもないし、いろいろな教えを比較するためでもないし、マスターたちの比較研究をするためでもない。私の話を聞きなさい!

私はあなたに話しているのではない。あなたの中の静かなる、目に見えない聞き手に話しかけているのだ。

質問者:マスターの存在や対話も、ある種のゲームのようなものに過ぎないのですか?

マハラジ:初めの段階では直接的な知識を与え、「弟子」に自分もマスターだと思い出させるために、マスターが必要だ。マスターは、弟子とマスターの間には違いはないという確信を与えるのだ。マスターが弟子を確信させるプロセスを始めて、そして弟子が自分自身を確信させることで、このプロセスは続いてゆく。
 マスターは、究極から話をしている。マスターは身体形態の制限を超えており、幻想に囚われていない。マスターは知っている。なぜなら、マスターの知識は真我知識、直接的な知識だからだ。

中略

実際のところ、「あなた」も「私」もない。「彼」も「彼女」も「弟子」も「マスター」もない。幾重にも重なった無知と幻想の層を取り除き、源に戻り、実在を明らかにするため、私たちはマスターと弟子のふりをして遊ばなければならない。

以上引用終わり

真我を探求する人は、皆すべからく同じだとは思うが、自分も若い頃から絶えず正しい本物の師匠を求めてきた。そして、今、このラマカント・マハラジの言葉が、ぴたっと腑に落ちた。そういえば、正しい師に出会わなければ、学ばない方がいいという言葉があったなと思い調べて見ると、それは道元禅師の「正師を得ざれば、学ばざるに如かず」という言葉だった。元々うちの菩提寺は、曹洞宗で親戚でもあるし、道元禅師には縁がある。太極拳と禅の師匠である山口博永老師も曹洞宗のお坊さんだったし、毎日読む経本も博永師の元で居士となった時に頂いたものだ。そういえば、博永師といっしょに中国の河南省に陳式太極拳の修行に行った時、近くにあった少林寺に行き、禅の始祖である達磨大師の面壁九年の洞窟にっも行ってきた。そして今、師と弟子という関係の中で連綿と受け継がれてきた教えの本当の意味をラマカント・マハラジの言葉の中に見出すことができた。

 

HP Desktop 190 Ryzen 3/8GB/2TBのメモリー増設

昨日は、時間があったので、夏前に買ったままになっていたPCのメモリーの増設に兆戦してみました。PCの機種によってやり方がまったく違うので、やり方がわかるまでが大変です。今回もHPのサポートセンターに電話してみましたが、教えてもらえず、結局自分の勘でなんとかうまく交換することができました。同じようにメモリーなどの増設で悩んでいる方の参考になればと思い、動画をブログに載せてみました。ただし、交換した後に気付いて片手にカメラを持ちながら撮影したので、あまりできはよくありませんが、その点はご勘弁ください。

初めにマイナスドライバーを使ってネジを緩め側面の蓋を開けて、フロントカバーも開け、前面のネジもはずした後からの撮影となりました。今回うまく行ったポイントは、DVDドライバーについている緑色のプラスチックの取ってのようなもの意味に気がついたことにあります。最初は、これを上に上げるのか引っ張り出すのか迷いましたが、横に押してDVDドライブを押し出すことに気がついたら、すべてがうまく行きました。

DVDドライブが外せたら、次にHDDドライブですが、これはかかっているケーブルを外して上に持ち上げれば、すぐに基盤とメモリーが見えて、無事にメモリーの増設ができました。肝心のその部分は片手カメラを持って撮影ができなかったので、残念ながら動画はとれませんでした。そして、交換した後にまた元に戻す時、最初は、HDDドライブとDVDドライブを戻してから行ったのですが、それだとフロントカバーがDVDドライブに当たって上手く行かなかったもで、もういちどそれを外して、フロントカバーを取り付けてからやり直したらたら上手く行きました。

そして、8GBだったメモリーを16GBに無事増設することができました。PCでも治療でもそうですが、予め答えがわからないことに兆戦して、物事が上手く行くと非常に喜びがります。患者さんの中に、いつもPCのウイルスに感染することばかりを気にして毎日検査していて、自分にもそうするように勧めてくれる人もいますが、PCも人生も恐れてばかりいずにいかに挑戦して問題を解決していくかが大切なことだと思います。恐れを取り除き、兆戦して自分でいろいろなことができるようになるのは楽しいものです。

己を以って主とす、他に何ぞ主あらんや

今日行った馴染みのお米屋さんで、占いの話になった。よく来るお客さんの中にも、そうしたものを信じている人がいて、神のように崇めている人もいるという。中には、霊を一体とると3万円とか言われ15万円も払った人もいるという話もしていた。まあ、何を信じるかはその人次第だが、まず初めに信じなければいけないのは、己自信でなければならないようだ。そうしないで、人に依存すると大変なことになる。

「自己なき自己」の本の中でも、同じような話が語られている。もっともここに語られているアンマは、世界中をハグをして回っているインド人の女性の聖者で、本物であり、けっしてお金を巻き上げるような人ではないが、それでもそうした聖者にハグをしてもらい祝福を受けに行くことに意味があるのかどうかということについて語っている。

以下引用

質問者:私はここにあまり長くはいられないと思います。というのも、マザー・アンマに会いに行きたいのです。

マハラジ:マザー・アンマのところで幸せを得られると思うなら、そこへ行きなさい。私は、あなたがすることを規制したりしない。もし、あなたがここで幸せでないなら、どこにでも自由に行きなさい。しかし、アンマに会って得られるのは、別の種類の知識だ。あなたは身体形態の中に、身体形態の幸せを探ろうとしている。

私たちの系譜では、あなたの目に見えぬ実在に、直接的知識を与える。あなたの身体形態に与えるのではない。それは、あなたのアイデンティティではないのだから。

(小略)どこにでも、行きたいところに行きなさい。しかし、あなたはそこにとどまらなければならない。あるマスターのところで平安を見つけたら、そのマスターのもとにとどまりなさい。

中略

質問者:ダルシャンを受けに誰かに会いに行くことが、なぜあまりいいいことではないのか、説明してください。

マハラジ:誰がダルシャンを欲しているのか?あなた自信のダルシャンを受けなさい!自分自身にダルシャンを与えなさい。

あなたがいなければ、ダルシャンもない。

「アンマ」と言うには、あなたの臨在が必要だ。「神」と言うには、あなたの臨在が必要だ。あなたがアンマの父、アンマの母だ。あなたの臨在がなければ、あなたはアンマに会うこともできない。なぜなら、全世界はあなたから投影されているからだ。

中略

すべての神や女神は、あなたの中にある。全世界があなたの自発的な投影だ。

以上引用終わり

たぶん同じアンマだと思うが、自分自身毎年アンマが日本に来ると10年近くダルシャンを受けに東京に通っていた。そして、最後は、インドのアシュラムにまで行ってきた。このブログにも以前はアンマの言葉をその本の中から、ずいぶん引用していた。そして、インドのアンマのアシュラムに滞在していた時のことアンマが小さな聖堂でダルシャンをしている時に、その奥にある大聖堂で、一人で座って瞑想していたら、その舞台から巨大なエネルギーが吹き寄せてきたのを感じた。その時にアンマという存在は、その肉体ではなくあらゆる空間に遍在しているのだなとわかった。

そして、その遍在する巨大なエネルギーこそ、自分の本当の姿だとマハラジは言っているのだろうか。それなら合点がゆく。しかも、それはアンマとインドのエネルギーではなく(今までそう思っていたのだが)、自分自身の本来の姿の投影でしかないと言っているようだ。

若い時から、初めは山口博永老師について禅と太極拳を習い、次にアンマのダルシャンに参加して、今、上江洲先生の光話会に参加しているが、自分の根本に響いているのは、「己を以って主とす、他に何ぞ主あらんや」という禅の言葉だ。そして、今回、ラマカント・マハラジの「自己なき自己」という本に出会ったことで、その意味が明らかにされている。この本との出合いは、単なる偶然ではなく、それぞれの時代に応じて、正しい師匠に出会い適切に導かれてきた結果なのかもしれない。

皆さんも、素晴らしい本なので、縁のある方は、ぜひ一度読んでみてください。

 

夏の終わりの胃腸の疲れ

夏も終わりに近づき、胃腸の疲れを覚える人も多いのではないだろうか。中にはお腹がゆるくなって、毎日下痢気味という人もいるかもしれない。梅雨は長かったが、今年の夏も、それなりに暑かったので、そろそろ胃腸が冷えて疲れがでる頃だ。今までは少し動くだけで汗が噴出すので、ヨガや気功などの運動もしにくかった。これからは、体を動かすと気持がいい季節になるので、また、体調を整えていくいい季節になってくる。

その前に夏の疲れをとってゆく必要があります。気功指圧を受けにくる患者さんに対しても、お腹に手の平を当てて、ゆっくりじっくりと気を入れながら温めて内臓の疲れを取る施術を行っている。なぜなら、夏の疲れでお腹が冷えて、ガスが溜まって張っている患者さんが多いからだ。気を入れてお腹を温めてゆくと胃腸が動き出し、再び元気を取り戻してゆく。内臓の疲れ冷えから来る腰痛もだんだん取れて楽になってゆき、疲れで強張った表情もほどけて、笑顔になって帰ってゆく。

自分では腸の養生として、冷たいものを飲むのは控えたり、玄米を食べて腸壁を掃除したりすることを心がけている。後は、最近は、両手を先をを腸骨にそってお腹に差し込んで、軽く大腸を引き剥がすように持ち上げながらマッサージしている。これを続けいる初めは硬くて痛みがあった箇所がほぐれて柔らかくなり、腸が軽くなったように感じる。本当は,一週間も断食すればいいのだが、指圧をするとけっこう体力も使うので日常の中で行うのはまず無理だ。それでは、まとまって休んでどこか別の場所ですればいいのだが、仕事や家族のことを考えるとそれも難しい。とりあえず、体の内側からさらに腸壁をきれにしてくれる物を今は捜し試している状態です。

虫の声も聞こえだし、赤とんぼも飛び始めて秋が、すぐそこまでやってきました。共に体調を整えて、また、元気を出して新しい季節を迎えましょう。

 

溺れることのない海へ

昨日の気功教室は、まだ来始めたばかりの人がいたので、「青い海」の気功を初めから丁寧に教えた。もう長く教室に通っている生徒さんたちは、自然と体が動くようになっているので、こうして初めから丁寧に解説しながら教えていると、「知らなかった。初めて聞きました。」と毎回言われる。しかし、それは完全に動きが身についてしまっているので教えたことまで忘れてしまっているのである。でも、それでいいのだ。

なぜなら、「自己なき自己」でラマカント・マハラジが説いていたことを見事に実践しているにすぎないのだから。つまりは、前回書いた「ただ聞きなさい。そして、聞いたことを忘れなさい。私が伝えていること、あなたに話していること、私の言った言葉、それらの背後にある根本現理を知ろうとしなさい。」を実践して、言葉はすっかり忘れ去って、自分の意識の中へ深く入り込んでいるからだ。そのことをラマナカント・マハラジ風に言うとしたら、こんな風になるだろう。

動きを分析してはいけない。

動きは重要ではない。

動きの背後の気の流れに集中しなさい。

動きの背後の意識の大海に身を浸しなさい。

 

ところで、毎年、夏になると水の事故でたくさんの人が亡くなるニュース目にする。ほんの遊びつもりで泳ぎに行ったり、釣りに行っただけなのに帰らぬ人になってしまった家族の心痛を思うとどうやって立ち直ってゆくのかと心配になってしまう。その点、「青い海」の気功は、イメージの中で意識の大海の中をクジラになったりして、泳ぐだけなので溺れて亡くなる心配はない。安心して意識の大海で遊ぶことができる。

「青い海」の気功の最後は、皆で輪を作りその中に静かな山の湖に映る満月をイメージする。自分の場合は、子供の頃から慣れ親しんだ榛名湖をイメージしている。そして、湖の漣が治まり、満月がよりはっきりと明確に映し出された時に、しだいにその光は湖全体に広がりだし、自分たちを溶かし消し去り、最後に光だけが輝いている状態になる。この段階になるとすべての雑念が消えて、心は静まり清らかなとなる。そして、それこそが、「青い海」の気功が導く、溺れることのない海の姿と言えるだろう。

 

言葉の背後の意味に集中する

上江洲先生の光話会に通っていていつも不思議に思うことがある。それは、多くの人がその話を録音しようとして、ICレコーダーなどの録音機を先生の近くに置いておくことだ。先生の話は、毎回違うが、言っていることは、一つで全一体、すべてが一つだということだと思う。だから、話はあまり聞かずに先生の波動を感じて瞑想をしている。まさにその言葉よりも、その背後の意味に集中している状態と言えるだろう。

ラマカント・マハリシの本の中にも同じような言葉があったので、引用してみよう。

以下引用

マハリシ:専心することがとても重要だ。ただ聞きなさい。そして、聞いたことを忘れなさい。私が伝えていること、あなたに話していること、私の言った言葉、それらの背後にある根本現理を知ろうとしなさい。

言葉を分析してはいけない。

言葉は重要ではない。

言葉の背後の意味に集中しなさい。

言葉の背後の根本現理を知ろうとしなさい。

中略

ブラフマンという名前も、「アートマン」という名も、「パラアートマン」と言う名も、「神」という名もすべて、「究極の真実」につけられた名前だ。

しかし、言葉は究極の真実ではない。

これが多くの人が犯す間違いだ。

多くの人が、こうした言葉が究極的な真実だと考える。

言葉は、究極の真実ではない。

引用終わり

上江洲先生の話というのもあまり覚えていないし、帰るころにはたいていほとんど忘れている。しかし、またすぐに行きたくなるのは、先生の放つその繊細な波動を感じ、その中で瞑想したいと思うからだ。スピリチュアルな指導者というのは、その人が何を言うかよりも、その人がどんな波動を発しているのかというのが重要になると思う。優しく癒され、深い瞑想状態に入れるような波動を発していれば、その人は本物と言えるだろう。

先生の会に来ていた人で急に来なくなってしまう人たちもいるのだが、そうした人たちは、先生の波動ではなく言葉に幻惑されてしまったのかもしれない。長く続けるためには、言葉ではなく波動を感じるだけの適度な距離感というのものが、必要なのかもしれない。また、今世界で起きている宗教による悲劇は、こうした言葉の背後にある意味を履き違えているせいなのかもしれない。

本当の意味でのライオンキング

最近は、ラマカント・マハリシの「自己なき自己」という本をゆっくりと読み進めている。その本の中にこんな話があった。

以下引用

質問者:では、すべての問題を引き起こしたのは体だということですか。

マハラジ:実際の所、体はあなたに自分自身を知る機会をくれる。体が突然、大きな幻想の隔たりを作り出したので、実在はあなたにとって未知のものとなり、その結果、あなたは自分の真のアイデンティティを忘れてしまったのだ。
強くなり勇気を持ちなさい。臆病な生き方をしてはいけない。ライオンのようになりなさい。ライオンの例え話を知っているかね?子ライオンが羊の群れの中に連れてこられた。子ライオンは、自分も羊だと思い始めた。子ライオンは、犬や狼を怖がった。そして、ある日別のライオンがやってきて、この子ライオンと友達になろうとした。子ライオンは、泣きそうな声で言った。「僕を傷つけないでください。僕は羊なんですから」。別のライオンは、子ライオンを川岸に連れて行って言った。「水に映る自分を見てごらんよ。自分の顔を見てごらん!体の残りの部分も見てごらんよ。わかったただろう?僕は本当のことを言っている。君も僕を同じライオンなんだよ!」。子ライオンは、水面に映った自分の顔。体。各部を一目見るなり、「ああ、そうだったのか!わかった!」と言った。

中略

マスターも同じことを言っている。「あなたは男ではない。女でもない。あなたはブラフマンだ」。咆哮を上げることができるのに何を恐れる必要がるのだろう?

つまりこういうことだ。実在を知れば、あなたはもともとの場所に戻る。

以上引用終わり

ちょうど同じよな話を鷲を例にとったたとえ話で読んだことがある。つまり、自分たちの本質は、臆病な羊や鶏ではなく、気高いライオンや鷲のようなものだということだ。だから、自分たちの本質を知れば、なんの恐れも不安もなくなるということだ。仏教でいう施無畏とは、こういうことを言うのだろう。

そういえば、観世音菩薩は、人々の畏れを取り除くという意味で施無畏者と呼ばれているのだと言う。般若心経の中のこの下り「是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智、亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罜礙、無罜礙故、無有恐怖、遠離・一切[注 6]・顛倒夢想、究竟涅槃。」

は、やはり「自己なき自己」の中のこの言葉に呼応している。

以下引用

ただあることとともに、ただありなさい。ただ自分自身を、体が存在する前の自分の状態でいなさい。あなたは、すでに最終的な真実であり想像も概念もない」、「この恐れの亡霊の悪循環を断ち切りなさい。「私は死なない。私は生まれていない」ということを受け入れなさい。誕生と死は、体だけに、食物からなるからだだけに関係している。この確信がとても重要だ。

以上引用を終わり

すべての苦しみや災厄の原因は、自分が肉体だと錯覚することから始まっている。もっとも、生まれてから死ぬまでずっと肉体の中にあって、痛みや苦しみを体感しているのだから、そう思い込んでしまったとしても無理もないことです。普通の人が、自分が肉体ではないなどという真実にたどり着くのは、本当に難しいことだと思います。

しかし、ありがたいことにその真理に気がついた人たちがいて、その真理をお経や本の中に残してくれいる。だから、後は自分たちが、日々の中で実践して体感としてその真理を理解してゆくだけでいいのです。といっても、その道はそれほど簡単にはいきませんが。

 

 

前橋の花火2019

今年も前橋の花火大会を見に行ってきました。今年の夏も暑かったが、花火を見るとそれもいいものだと思えてくる。来週は、お盆だし、お盆を過ぎれば、朝晩が涼しくなってくるだろうから、暑い暑いと言ってももう少しだ。

本当は、花火の音がそのまま聞こえればいいのだろうが、ラジオで流していた曲が入ってしまっているので、JASRACが気になって流すこともできない。困ったものだ。自分たちの欲望のために、かえって街から音楽を消して行っていることに気がついていないのだろうか。悲しいことだ。

あまりに暑い日には、患者さんもあまり来ない。そんな日は、涼しい山にでも行って、その風景を写真にでも撮って、皆さんにブログで紹介した方がいいのかもしれない。この暑さも、もう少しでしょうから、皆さん、頑張りましょう。

 

 

胃腸の冷えにご用心!

梅雨が明けて、毎日暑い日が続きます。こう毎日、暑い日が続くと、あれほど長かった梅雨のことも思い出すことさえできないぐらいだ。頭の中の思考も記憶も、蒸発してどこかへ飛んでいきそうだ。そんな中昨日来た患者さんが、左の膝から下の筋肉が寝ていてつってしまうと訴えた。

それは、前脛骨筋という筋肉で足の指先を上げる時に力の入る筋肉だ。ちょうどその上に足の三里がある。普通は、足の裏のふくらはぎが寝ていてつれることが多いのだが、足の前の部分がつれるのは、珍しかった。

そこで、何かその部分の筋肉を使うようことをしましたかと聞いてみた。たとえば、仕事で長く歩いたとか、つま先をあげるとか。しかし、特別、何かした覚えはないという。そこで、その部分は、経絡的には胃の流れなので、胃を冷やすことをしましたかと聞くと、冷たいものばかり飲んでいるしアイスも毎晩食べているという。胃の反応は、左に出易いので、冷たい飲み物で冷やした胃反応がそこへでたのでしょうと言った。

今年も異常に高温が続いているので、すでに身体に不調が出ているようだ。熱中症の予防で水分をたくさん補給するのはいいが、胃腸の冷やしすぎには、注意しましょう。そしないと秋口になって、涼しくなるとどっと疲れが出て、夏ばてや秋ばてに繋がります。